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望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その8/8

その7>>

4.『ポストン文藝』の特色と果たした役割

『ポストン文藝』の第一の特色は、特定の集団ではなく一般の収容者を対象とした総合雑誌であったこと。内容は文学のみならず、様々な娯楽的要素をもった読物や写真、芝居や日本舞踊公演に関する記事もあり、いわゆる「講談本」や演劇などのファン雑誌の要素も含まれていた。

第二の特色は呼び寄せを含む一世が発行の中心的役割を担ったこと。編集者及び寄稿者に帰米二世はいるが、その数は少ない。一世が創り出したものに帰米二世が参加するいう形をとっていた。

第三に当局による検閲を重視して、作品の内容について自己規制を行なったこと。当局は忠誠者のみの収容所ということで、収容所の秩序を乱す行為を取り締まり、厳しく監理しようとしたため、とくに日本語のみを使う活動には神経を尖らせたようである。編集側は作品募集のときから「米国戦時体制に反しないもの」、「絶対に文藝的なもの」、「キャンプニュースは禁止」(『ポストン新報』43年7月31日付)という寄稿規定を設けた。この結果、45年新年号の懸賞小説第2位に選ばれた「志願兵」という作品は「時節柄その表現乃至字句に多少誤解を招く憂ひありと認め」掲載を断念した旨の断り書きが2月号に載せられた。トゥーリレイクなどは隔離収容所になってからの検閲は形式的になったようだが、忠誠者の収容所ではかなり厳しいチェックがあったことをこの投稿規定が示している。

したがって第四の特色は政治色が少なく、市民でありながら収容所へ送られたという矛盾、強制収容の苦しみを赤裸々に訴える作品が見られないこと。これは作者の大多数が敵性外国人に分類された一世であったことを考えれば納得できる。第五に、日本の雑誌記事の抜粋をそのまま載せたものや収容所の環境がまったく反映されていない記事が多いこと。一世は自己規制をした結果、日本の雑誌記事を再現しそれらを読むことで望郷の念を満足させた。政治色を帯びない、純粋に日本の文芸であれば検閲でも問題はなく、しかもそれを読むと日本にいて日本の雑誌を読んでいるような錯覚にとらわれ、一時でも収容所の苛酷な現実を忘れることができた。そこには一種の現実逃避の実態が見られる。

『ポストン文藝』の果たした役割は、多くの人びとの楽しめる読物を提供したことである。同時にデマに惑わされ、スパイや密告を恐れて疑心暗鬼のうちに暮らす収容所生活を少しでも改善するために、啓蒙的な役割を果たしたことも見逃せない。

松原信雄は「朝の想念」(44年8月号)の中で「……今日こそせめて今日一日丈でも心静かに、不平を唱へず、人を非難せず、他の罵声やデマに心乱されることなく、唯人を益することのみを考へ、さうして他に歓ばれる善事をしやう」と述べている。余暇を利用して作品を投稿し、初めて書くことの楽しみを味わった人がいる一方で、「回顧」(終刊号)の正木良夫のように、たぶん独身で、酒や賭博に溺れブランケットを肩に季節労働者をしているうちに70歳になってしまった男が、収容所で『ポストン文藝』と出会い、杖をつきながら「人様のお役に立ちたい」の一心で手伝い、はじめて人に喜ばれるまともな人間になれたという予期もせぬ効果も生まれた。野田夏泉の「動かぬ水は腐敗する。ともすると沈滞勝の人心に防腐剤の役目を果したのは『ポストン文藝』である」(終刊号)ということばが、『ポストン文藝』の役割を的確に表しているかもしれない。

『ポストン文藝』にたずさわった人びとの中で、戦後に著書を出版した人は多い。阿世賀紫海『北米大陸一周紀行』(私家版、1952年)、外川明は先に述べた『蜜蜂の歌』を、風戸登代『ちぎれ雲』(日本文芸社、1965年)、矢形渓山『揚げ羽蝶』(川柳岡山社、1972年)、野田夏泉『アメリカに老ゆ』(日本出版貿易、1980年)、重富初枝は先に述べた『ポストンものがたり』を出版した。これらの中にはポストンで書いた作品も合せて掲載されているものが多い。戦後、野田はロサンジェルスで書店を経営するかたわら『加州毎日新聞』のコラム「一街の窓」に随筆を連載した。外川は『南加文芸』同人となり、創刊号から27号まで「南加詩壇回顧」を連載したほか随筆などを書き、1980年に亡くなった。

ポストン収容所の跡地に立つと、あたかも地が燃えているかのように熱気がたちのぼる。このような荒々しい自然の中で、人びとは花鳥風月を詠い、歌舞伎を楽しみ、小督局を読んで平家物語の世界に心を奪われたとは想像すらできない。彼らは日本から身につけてきた伝統文化をここで再現したのである。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

About this series

Many Japanese-language magazines for Japanese Americans were lost during the chaotic times of war and the postwar period, and were discarded because their successors could not understand Japanese. In this column, we will introduce annotations of magazines included in the collection of Japanese-American literary magazines, such as "Shukaku," a magazine that was called a phantom magazine because only the name was known and the actual magazine could not be found, as well as internment camp magazines that were missing from American records because they were Japanese-language magazines, and literary magazines that were also included by postwar immigrants.

All of these valuable literary magazines are not stored in libraries or elsewhere, but were borrowed from private collections and were completed with the cooperation of many Japanese-American writers.

*Reprinted from Shinoda Satae and Yamamoto Iwao, Studies on Japanese American Literary Magazines: Focusing on Japanese Language Magazines (Fuji Publishing, 1998).

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About the Author

Professor at the Faculty of Humanities, Tokyo Kasei University. Graduated from the Graduate School of Japan Women's University. Specializes in Japanese-American history and literature. Major works: Co-edited and authored "Collection of Japanese American Literary Magazines," co-authored "Japanese Culture in North and South America" ​​(Jinbun Shoin, 2007), co-translated "Japanese-Americans and Globalization" (Jinbun Shoin, 2006), co-translated "Yuri Kochiyama Memoirs" (Sairyusha, 2010), and others.

(Updated February 2011)

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