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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その2

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2.ブラジルの食生活と外国移民

独立以前のブラジルの栽培作物は20種ほど数えられ、果物は比較的多様であったのに対し、野菜は極端に少なかった。こうした食生活に変化をもたらしたのが外国移民であった。

今日残されている19世紀末の大農園主の日用品の購入記録をみると、日常の食事は、農園主であろうと奴隷であろうと大きな差はなく質素であったことがわかる1。肉(牛、豚、鶏)は高価であったことから、結婚披露宴のような特別の場合を除き、地の魚が食され、主食はキャッサバと豆類が主な食材であった2。在来種のトウモロコシや米も利用されてはいたが、とりわけキャッサバはケーキにスープに煮物と、多様な形で用いられていたようである。

味付けは塩が基本であった。しかし塩は、植民地時代、宗主国ポルトガルから輸送されており、その供給は不安定なものであった。塩と一緒に香辛料が味付けに用いられていた。タマネギ、ニンニク、クミン、グローヴ、ナツメッグ、シナモン、ジンジャー、オリーブオイル、トウガラシ、ヤシ油などといった多数の香辛料が、植民地開発当時より用いられていた。アジアを原産地とする多様な香辛料が植民地時代早期に用いられていたことは、当時のポルトガルのアジア貿易の影響をそこにみることができる。ただし、同じアジア貿易の高価な交易品であったコショウは、ほとんど用いられていなかった。「東洋の黒いダイヤ」とも呼ばれたコショウは、ポルトガル人を通じて17世紀に植民地ブラジルに導入されたが、栽培技術や品種の問題があり、大規模な栽培にはいたらず、高価な輸入品であった3

栽培上の問題を解決し、コショウをブラジルの主要な輸出産品としたのは20世紀にアマゾンに入った日本移民であった。ジャガイモも南米原産とはいえ、植民地時代初期にはまだ知られていなかった。19世紀にスペインやポルトガルからの移民がそれぞれ自国から携えてブラジルで栽培するようになった。旧大陸からもたらされたジャガイモの品種を改良して量産に成功したのは日本移民であった。

ポルトガルから輸入されていたものは、塩のほかにワイン、乾しブドウにドライ・イチヂク、干鱈、塩漬けイワシ、小麦などがあった。小麦の栽培は植民地でも試みられたが、熱帯、亜熱帯という気候に適する種が開発されなかった。19世紀に入り、ドイツ移民やイタリア移民がブラジル南部で栽培を試みるがやはり失敗している。ブラジルの町にパン店が出現するのは20世紀に入ってからで、独立後のブラジルに小麦を供給していたのは、もっぱら米国で、1940年にも小麦買い付けの条約が米国と結ばれている。ブラジルで小麦の栽培に成功するのは20世紀半ばのことである。

嗜好品であるアルコールと甘味は、サトウキビのプランテーションによって植民地開発の始まったブラジルでは容易に手にすることができたもので、果物を加えてジャムやリキュールと、色々工夫されていたようである。

今日の商品作物のなかで植民地時代にすでにみられた果物は、アナナスと呼ばれるパイナップルの一種、アフリカから伝来したバナナ、中東やアフリカ起源のメロンやスイカなどである。レモンやオレンジはまだ導入さておらず、柑橘類ではライムのみが知られていた。19世紀になると、外国移民が持ち込んだ新種の果物が加わり、ブラジルの生鮮果物の種類は豊富になった。グアバ、カンブシ(フトモモ科の一種)、パッションフルーツ、ジャボチカバ、アセロラ、ライム、パイナップル、アナナス、パパイア、バナナ、スイカ、メロン、ビワ、オレンジ、ポンカン、マンダリンミカン、ドリアン、マンゴ、アボガド、ナシ、モモ、スイカ、ブドウなどなど、多彩な果物が栽培されるようになり、後に日本移民がこれら栽培作物の改良を手がけることになる。

植民地時代の記録に残っている野菜はキュウリのみで、16世紀のサトウキビ農園主の購入記録にそれがみられるが、高価なために、特別な機会に利用されただけのようである。ただし、オクラやジロ(ナスの一種)のようなアフリカ原産の野菜は、奴隷とともに持ち込まれた。

19世紀の半ば、当時ブラジル第4の大農園主が、自家用に野菜の栽培を試みた記録が残っている。そこにはトマト、ケール、サラダ菜、キャベツ、ジロ、クレソン、エンドウ、隼人瓜が栽培されたと記されている4

1870年頃より奴隷労働力の補給が不可能となり、サンパウロのコーヒー農園の労働力不足は深刻となった。これに代わる労働力として導入されたのがイタリア、スペイン、ポルトガルからのヨーロッパ移民であった。1819-1947年にブラジルに導入された外国移民は490万、このうちイタリア人が150万、ポルトガル人が140万である。ブラジルの奴隷制度が廃止された1888年に導入された外国移民は13万で、このうちのイタリア移民は10万を占めていた5。イタリア移民はトマト、ブドウ、ナス、カリフラワー、アンチチョークなどを、ポルトガル移民やスペイン移民は、サヤインゲン、キュウリ、タマネギ、エンドウマメ、ショウガ、ニンジンなどを、その他のヨーロッパ移民とともにブラジルに新たに、あるいは改めて、持ち込んだとされる。移民の数と時期を考えると、ブラジルの農作物に大きな変化をもたらしたのはイタリア移民であった。後にこれら農作物の品種を改良し、生産性の高い品種にしたのは、ブラジルに永住を決心した日本移民で、1955年以降のことである。

サンパウロ州を中心に日本人農家が展開した農法は、それまでのブラジルの粗放農業、つまり地力略奪農法とは異なる日本の集約農業であった。「日本人が借地した農地には雑草一本生えない」とブラジル人に言わせたほど、徹底した集約農業を展開した。農耕具を工夫し、農薬や堆肥を使い、家族労働力以外の労働力は補助的にのみ用いて、単位面積から高い収益をあげるという日本移民の集約農業は、サンパウロ市近郊の限られた広さの農地でも可能であった。また、生産品を中間業者によって買い叩かれるのを避けるために、日本人農家は、それまでブラジルには存在しなかった農業共同組合を組織して、共同で生産物を直接卸売市場に出荷する方法を採った。サンパウロ市近郊コチアの日本移民は、ジャガイモをサンパウロ市の青果取引所で直接取引きするために農業協同組合を設立して、成功を収めた6

1960年以降日本移民は、日本やその他の海外の野菜や新品種の導入に積極的に取り組できた。今日、サンパウロの市場には、日本移民が導入した白菜、ほうれん草、長ネギ、春菊、シイタケ、シメジ、レタス、日本ナス、ピーマン、日本キュウリ、大根、サヤインゲン、日本カボチャ、キャベツ、ミョウガ、里芋、ゴボウ、タケノコ、コンニャクイモ、イチゴ、巨峰、モモ、ナシ、リンゴ、富有柿、ハワイ・パパイア、ライチなど、多種多様な生鮮野菜や果物が並べられ、熱帯果物はもちろん、日本の味覚に事欠くことがなくなった。

要するにブラジルに渡った日本移民は、ヨーロッパ移民が導入した作物を改良し、日本を含み海外からも農作物を導入し、それらをブラジルの気候と市場の嗜好に応えられるものに改良すると同時に、ブラジル既存の作物も改良、育種し、野生植物は栽培作物とした。しかも単に改良したのみではなく、生産性の高い、良質の作物にしたからこそ、「日本人は農業の達人」とブラジル社会から称賛されるようになったのである。

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注記
1. Cascudo, pp.209-217.
2. 高価な鶏肉を用いた粥カンジャは、17世紀に病人食としてポルトガルで考案され植民地にも紹介された。しかし鶏肉が高価であったために、病院で患者に給されるようになったのは、18世紀に入ってからである(Souza, p.128)。
3. ブラジルでは、コショウを「王国からのからし」(pimento- do- reino) と呼び、地のからし(pimenta)とは区別される。ちなみにポルトガルでは、コショウを「丸からし」(pimenta-redonda)、あるいは「黒からし」(pimento-preta)などという。
4. Souza, p.124.
5. Carneiro, Anexo.
6. 高い生産性と共同出荷の結果、後にブラジルの日本人は南米最大の農業協同組合コチア農業協同組合を育て上げている。コチア農業協同組合の正式の設立は1927年とされている。1994年、創設70年を待たずに南米一の農業協同組合は倒産し、日本人農家による協同組合の時代は終焉する。コチアの倒産は、戦後の日系人の離農とも深く関係している。


*本稿は、 立教大学ラテンアメリカ研究所による『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

© 2011 Institute for Latin American Studies, Rikkyo University

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