• en
  • ja
  • es
  • pt

祖母ユリ・コチヤマの軌跡を巡る旅

Licensing

このアルバムは、私の祖母ユリ・コチヤマの軌跡をたどったもので、私が個人的に所有している写真とインターネットや全米日系人博物館アーカイブからの写真を集めてまとめました。

わたしは今20歳。これから先、学ぶべきことがたくさんありますが、私はそのひとつひとつを心から楽しみにしています! 祖母が、私たち孫の素晴らしい手本となってくれていることに感謝の意を表し、私はこのアルバムを彼女に捧げます。

このアルバムは、祖母を個人的に知らない人にも、彼女のキャリアや業績を超えて、祖母がどんな人物だったか垣間見ることができるかと思います。

****編注***** マヤは、このアルバムの他にも祖母ユリについて記事を書いています。 記事(英語のみ)はこちらから読むことができます >>

Slides in this album 

パワフル・ボイス

尊敬でき、かつ刺激を与えてくれる祖母。祖母のような手本が身近にいる私は、とても幸せ者です。祖母と同じように活動家としての偉大なキャリアや業績を残すことは、私にはとても無理だとは思いますが、彼女の価値観や象徴する理想を目指し、生きていきたいと思っています。祖母は、強く、パワフルな日系アメリカ人女性として、不平等な時代の性差別や人種差別の壁を乗り越え、彼女が出会った全ての人々の尊厳を主張してきました。

Yuri Kochiyama Speaking at JANM
Contributed by: mkochiyama

かわいい赤ちゃん

もうお分かりですね。私と祖母ユリの写真です。

私は小さい頃から、「あなたのおばあちゃんは素晴らしい女性なのよ」と言われてきました。でも、祖母がなぜそんなに有名なのか、彼女が何をしたのか、詳しくは知りませんでした。祖母は非常に控えめな性格で、彼女が自分のことや成し遂げてきたことを自分から話すことはありませんでした。そのため、私が直接祖母から話を聞く機会もあまりありませんでした。祖母との会話は至って平凡なものでした。祖母はいつも、学校はどうか、最近何に興味があるのか、スポーツは何をしているか、いつも真剣に聞いてくれました。私が大きくなると、世界や国内の時事問題についても話すようになったので、そういったことに対する祖母の考えを聞くことはありました。でも、私にとっての祖母は、年に数回会える、そして手書きのカードを送ってくれたり、面白い記事または祖母が重要と思う記事の切り抜きを送ってくれる、愛情深い普通のおばあちゃんでした。私は、家族や友人を通して祖母の人生の断片を知るうち、祖母が本当はどういう人だったのか、興味を持つようになりました。

Baby Maya with Grandma Yuri
Contributed by: mkochiyama

1942年、ユリと双子の弟ピート

カリフォルニア州サンペドロで生まれ育ったユリは、地元の教会の日曜学校で教え、ガールスカウトのボランティアに明け暮れ、子供たちに美術工芸、写真、応急手当、テニスを教え、高校ではスポーツジャーナリスト、という真のアメリカ人の女の子でした。

彼女の全てを変えたのは、真珠湾攻撃でした。「戦前、私はアメリカをアメリカ人の目で見ていました。真珠湾攻撃以降、日系アメリカ人に起こったことで、私は日系アメリカ人の目、という全く新しい視点で世界とアメリカを見るようになりました。この出来事は、様々な意味で私に政治的目覚めと発展をもたらすきっかけとなりました」と、ユリは振り返ります。

この写真は、ユリと双子の弟ピートです。第二次大戦中、ユリは婦人救急自営部隊に、ピートはアメリカ陸軍情報部に所属していました。

Yuri with Twin Brother, Pete 1942
Contributed by: mkochiyama

祖母と子供たち、アーカンソー州ジェロームのキャンプにて

祖母の家族はサンペドロの自宅を追われ、サンタ・アニタ集合センターを経てアーカンソー州ジェロームの強制収容所に送られました。その後、彼女は看護助士や日曜学校の講師の職に就きました。

父によると、祖母は、外国の戦地で戦う愛する祖父ビルに宛て、たくさんの手紙を書いたそうです。祖父は、自分だけにたくさんの手紙が届き、他の兵士に何も届かないことを申し訳なく感じていたそうです。そこで祖母に、あるアイデアが浮かびました。十字軍として手紙を送ることです。海外で戦う日系の兵隊たちに手紙を書く活動は、日曜学校の5人の若い女の子たちから、数百人にまで広がっていきました。

私は、当時の兵士たちが書いた直筆の手紙を読んだ時、とても不思議な気持ちになりました。十字軍からの手紙が、兵士たちの士気や気持ちを高めたこと、そして十字軍に感謝する彼らの気持ちがよく伝わってきました。

Grandma with the Kids in Camp Jerome, Arkansas
Contributed by: mkochiyama

「私のビル」<3

ユリが、たくましくハンサムな若きビル・コチヤマに出会ったのは、彼がジェローム強制収容所を訪れた時でした。祖父は、全米史上最も多くの勲章を受けた部隊として有名な、第442連帯戦闘団で戦いました。祖母にとって、情熱的な遠距離恋愛は、第二次大戦下の希望の光だったのではないかと私は思います。祖父は、最期まで祖母のパートナーとして、いかなる時も彼女に寄り添いました。祖父は、祖母の政治、社会運動に必ずしも賛同していたわけではありませんが、祖母の努力を支え、彼女を愛しました。祖父は、補償運動に参加し、調査活動や戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC)で証言をしました。彼らのそういった活動は、1988年に署名された「市民の自由法」へと繋がっていきました。

残念なことに祖父は、私がまだ2歳、妹がまだ生まれたばかりの頃に他界しました。私は、祖父ともっと一緒に同じ時間を過ごすことができればよかったのにと思います。

Yuri and Husband, Bill Kochiyama
Contributed by: mkochiyama

そして、全てがはじまる・・・

結婚し、ニューヨークに居を構えたユリとビルは、6人の子供たちに恵まれました。ビリー、オーディー、アイチ、エディー、ジミー、トミーです。写真は、長男のビリーを抱く祖母です。

Yuri with oldest son, Billy
Contributed by: mkochiyama

マルコムX

ユリが政治的影響を最も強く受けたのが、マルコムXでした。ユリのスピーチのなかでも、以下の発言は、彼女のマルコムに対する尊敬と称賛、そしてマルコムに学んだことで、彼女は自分自身の理想に辿り着いたことが読み取れます。

「マルコムが繰り返し言っていたのは、歴史を勉強し、私たち自身のこと、そして他の人たちのことを学びなさい、ということでした。全ての人々には、私たちが考える以上の共通点があります。そしてそれは、私たちが互いを理解する助けになります。歴史の知識は、私たちをさらに引き離す武器ともなり得ますが、過去の過ちや非難されるべき粗悪を学べば、真実を手にする糧ともなります。私たちが物事を学ぶ究極の目的は、まだ見ぬ、より公平な社会を築き、発展させることにあるのです。」

この写真は、ライフマガジン誌1965年3月5日の記事、「マルコムXの死」に掲載されたものです。

Malcolm X Assassination in Life Magazine
Contributed by: mkochiyama

公民権運動

最もよく知られているユリの功績は、1960年代の公民権運動での活動でしょう。当時の活動家の中でも彼女が際立っている理由は、彼女は日系アメリカ人だけでなく、アフリカ系、中南米系、アジア系、そして発言権を得るために苦悩する全てのアメリカ人を擁護していたからです。ユリは、より寛容で包容力ある世界を追求するため、文化の相違を超えた協調に挑み、結束することに強い信念をもっているのです。

Muhammad Ahmad and Yuri Kochiyama, the Movement
Contributed by: mkochiyama

初めてのニューヨーク!

私が初めてニューヨークを訪れたのは5歳、エディー叔父さんの結婚式に参列した時でした。正直、私が覚えているのはニュージャージーで従兄弟たちと遊んだことと、FAOシュワルツ(玩具店)の巨大なフロア・ピアノの上でジャンプして遊んだことだけです。当時より大分成長し、物事に興味をもつようになった今、私は、ニューヨークで築かれた歴史を体感するために、ぜひまた訪れたいと思っています。

写真は、545 W. 126th St. ハーレムの祖母のアパートの前で撮ったものです。

In Front of 545 West 126th St Apartment
Contributed by: mkochiyama

全ての魔法が起こった場所

ご覧のとおり、キッチンテーブルは抗議や集会に関するチラシ、ペン、友人や全米の政治犯に宛てた手紙、封筒、新聞記事の切り抜きなどであふれています。父が子供だった頃、その山のような紙をよけて、またはその上で夕飯を食べていたそうです。

写真に映っているチラシのほとんどは、当時祖母が定期的に文通していた政治犯と関係しているものです。祖母は、50年間で数千人もの受刑者に手紙を送ったのでしょう。

Kochiyama Family's Kitchen Table
Contributed by: mkochiyama

おばあちゃんはクマが大好き

祖母を個人的に知っている人なら誰でも、おばあちゃんが大のクマ好きということを知っています。

Yuri Kochiyama and Bears
Contributed by: mkochiyama

飽くなき挑戦

この写真は、ユリが81歳の時のもので、2002年9月14日に撮影されました。サンフランシスコのウーマンズ・ビルディングで行われたレジスト・ザ・サイレンス・プログラムでスピーチをしている様子です。

Yuri Kochiyama speaking at Resist the Silence program
Contributed by: mkochiyama

「Passing it On」–祖母の偉業を継承

UCLAにほど近いイースト・ウィンド書店に、親戚ほぼ全員が集まったときのことを今でも覚えています。ニューヨーク、オークランド、LA在住のコチヤマ家全員が一堂に会するのはとても珍しいことですが、祖母の本「Passing it On-A Memoir」の出版記念のため、みんなが集ったのです。

本が出版された当時、私は12歳くらいだったと思います。当時の私は、祖母のことはほとんど何も知りませんでしたが、おばあちゃんが自分で書いた本を出版するなんて、すごくかっこいいと思っていました。そして祖母は、スピーチの中で、本を孫たちに捧げることを宣言したのです!私はとても誇りに思い、同時にとても驚きました。その時初めて私は、祖母や家族と、自分自身との歴史的な繋がりを感じました。祖母のスピーチを録音していたかどうかは分かりませんが、彼女が何を話したか、よく覚えていないのが悔やまれます。この本を通して祖母が一番伝えたかったことは、彼女自身が人生の中で学んできた教訓、そして変わることのない彼女の価値観だったと思います。スピーチの最後に、祖母は孫たち全員を呼び、私たち宛てに書いたメッセージ付きの本を1冊ずつくれました。

セレモニーが終わって従兄弟たちと集まると、私たちはこれは何か大ごとに違いないと、顔を見合わせました。祖母は、私たちに遺産を残したのです。とてもうれしかったのと同時に、今までにない何かが私の中に芽生えました。それはプレッシャーでした。周囲は私たちが人権擁護の活動家や演説者になることを期待しているのでしょうか?立派なおばあちゃんに見合う孫になるにはどうすればいいのでしょうか?もし、何か全然別のことがしたくなったらどうしよう?私はいろんなことを考えました。

祖母の本を読んで、私の中で家族史がもっと身近に感じるようにありました。表面的にしか触れたことのなかったストーリーが現実味を帯び、実体あるものとなっていったのです。祖母は、もともとはサンペドロの閉ざされた世界の「真のアメリカ人」的な女の子から成長を遂げ、あれだけのことをやり遂げたのですから。「もしかしたら、私にも何かできるかも・・・」と思うようになりました。

Passing it On-A Memoir by Yuri Kochiyama Book Release
Contributed by: mkochiyama

あのシャツ、ユリおばあちゃんじゃない!?

数年前リトル東京を歩いていた時、祖母の顔がプリントされたシャツを着た人に遭遇しました。驚きましたが、素晴らしい偶然だと思いました。私は、この瞬間を記録せずに通り過ぎるなんてもったいないと、「そのシャツにプリントされている人、私のおばあちゃんなんだけど、一緒に写真を撮ってもらえませんか?」と話しかけました。その人もとても驚いていましたが、このちょっとした偶然を楽しんでいたようでもありました。

Guy with Yuri Kochiyama Shirt
Contributed by: mkochiyama

2010年追憶の日

私が祖母のスピーチを直に聞き、その内容に浸ったのはあの日が初めてだったと思います。それは2010年サンフランシスコの日本町で行われた追悼セレモニーでのことでした。当時私は18歳で、最初のアジア系アメリカ人研究の講義を受講し終えたばかりでした。祖母は88歳でした。私は、祖母の小さな体から溢れ出る強さとパワーにただ呆然としました。その場で体感すべき、確固たる情熱がそこにありました。

Yuri Kochiyama speaking at DOR 2010
Contributed by: mkochiyama

全米日系人博物館でのインターンシップ

全米日系人博物館でのインターンシップは、私にとって素晴らしい経験でした。インターンシップの詳細については、別に記事を書く予定ですので、ここでは割愛します。この写真は、博物館のコモン・グラウンド(常設展)にある祖母の写真の前で撮ったものです。ここでインターンとして働く私が、このように写真を撮るのはなんだかおかしな感じがしました。というのも、この祖母の写真は、祖父の言葉が引用されている展示の部分とちょうど向かい合わせにあったからです。私はそれは偶然なのか、意図的なものなのか、ずっと考えていました。

私は、なぜ自分が好んで日系コミュニティと関わり、なぜ今年の日系コミュニティ・インターンシップ・プログラムに申し込んだのか、ここで働く中で再確認することができました。私たちにはとても豊かな文化的歴史があり、大勢の人々に大切にされています。その中心で過ごした日々は、素晴らしい経験となりました。

Maya Kochiyama at JANM 1
Contributed by: mkochiyama

コレクションの中には・・・

全米日系人博物館でインターンシップを始める際に、祖母に関するコレクションを閲覧できることを知り、私はとてもわくわくしました。写真の左下に映っているのは、収容所で綴られた2冊の日記のコピー、その右にあるのが寄贈された小さな写真のコレクションです。これを扱うにはきれいな手袋を身に着けなければいけません。右端には、十字軍のスクラップブックがあります。いずれも歴史的価値のある大切な物です。

Yuri Kochiyama JANM Collections
Contributed by: mkochiyama

祖母の日記

サンタ・アニタ集合センターに収容された1942年4月3日からジェローム強制収容所での1942年11月26日までの祖母の日記を見つけた時、驚くと同時に、心が踊りました。全米日系人博物館のコレクションとなった2冊は、感謝祭の日のページが書きかけのまま終わっています。私は、祖母の日記に急いで目を通しながら、なんとか時間が止まってくれないかと願いました。そして、最初から最後まで読んでしまうまでは、その場から立ち上がりたくない、という衝動に駆られました。私がそれまで聞いてきた話や学んだ事実は、日記の中のひとつひとつの言葉と相まって、より一層現実味を帯びるようになりました。

祖母の21歳の心中を読み、彼女の視線を通して物事を見ることは、不思議な感覚でした。さらに不思議だったのは、祖母がその日記を書いていたのは、私と同じくらいの年の頃だったことです。私は、自分が当時の祖母と同じ立場だったら、という想像はできませんでした。ユリは、強制収容された他の12万人の日本人や日系人と同じように、自分が所有し築いてきたものを全て失い、人生を足止めされていたのです。

私が祖母の日記を読んで確信したのは、彼女を知る多くの人たちも言うように、祖母は物事を正確に記憶できる人だということです。バスに揺られて向かった、サンタ・アニタ集合センターへの長く退屈な道、古い馬小屋をバラックに改造した住処、私は祖母の当時の生活を追体験しているようでした。私の中で特に印象に残ったのは、以下のくだりです。1942年11月、ジェロームで、戦争やアメリカにおける日系人の扱いについて、マルヤマさんという人の話を聞いた後、ユリは、聞いたことを内面化し、考えています。「彼女の話を聞くうちに、何かが確実に私を掴んだ。私は感動し、白人と同じ機会を手にする権利を得るため、二世のみんなと協力して一緒に戦いたいと思う。大層なことはできないけれど、二世から切り離されたものを再構築するため、私に出来る範囲で、小さなことでも何か手伝えるはず。単に手紙を書くことでもいい。今まで書いたことはないけれど、手紙を書こう。手紙で元気を出してもらえるかもしれない。勇気が湧くかもしれない。私にも出来ることがきっとあるはず。うん、そうよ。やってみせる。」このくだりは、彼女の精神と物事に対する姿勢を、ありありと表していると思うのです。

Yuri Kochiyama's Diary in Camp
Contributed by: mkochiyama

「大きくなったら、ユリ・コチヤマのように・・・」

シアトル出身のヒップホップ•ラップ デュオ、ザ•ブルー•スカラーズがユリの曲を書いています。ぜひ聞いてみて下さい!

歌詞はこちらです。(英語からの訳です)

Oh, yeah!

次の戦いのために、俺は戦闘態勢にある。今、この現代にも無関係じゃない。
たとえ奴らがもう飽きたと言い止めてしまっても。
退役軍人を前に、俺は慎ましい気持ちになる。
銃を手にした退役軍人じゃない。
兄弟に、姉妹に手を差し伸べた軍人だ。
その手によって歴史が動かされたのを、俺は見た。
年老いた日系女性、彼女に耳を傾け彼女を見ていた。歩行器には「*ムミアを解放せよ」のステッカー。
反体制気どりのリッチマンがムミアのことを口にするずっと前だ。
60年代に感謝の念を持たず、最悪の時代を生きた人と言葉を交わしたこともなかった。
今なお生きている人たちがいる。
もっとすごいのは彼女は今も戦っているってことだ。間抜けで無知な無数のガキどもに語りかけ続けている。
俺もその1人だった。
その辺でうだうだしてためらっていたけど、
「直接お会いでき、光栄です。」俺は言った。
彼女は俺の手をとり、「私も会えてうれしいわ。」と言った。
学校を出たら何をしたいかと尋ねられた。
ちょっと考えたけど、何をしたいかは決まってた。
若者のために働きたいとか、そんなんだった。
実際音楽で食えなきゃ教師になってただろう。
ギリギリの生活になるのは覚悟の上だ。
そう、だから俺は聴衆に向け、これを書いている。
スカラーとして。

コーラス:
大きくなったら、ユリ・コチヤマのようになりたい。
カサマの仲間に誓うよ。
大きくなったら、ユリ・コチヤマのように。
彼女がこの歌を聞くことがあれば、俺は誇らしい。
だって俺は、いつかユリ・コチヤマのようになりたいから。
俺も人々に本当の奉仕をしよう。
大きくなったら、ユリ・コチヤマのようになりたい。

ライフ誌の写真を見た。
あなたはマルコムの最後の演説を最前列で聞いていた。
ショットガンを持った最初の男を見た。(バン!)
後に続いた2人が撃ち抜いた。
あの時マルコムを抱きかかえていたのがあなただなんて誰が思うだろう?
彼の目がかすんでいく中、あなたは何を感じていたんだろう?
マルコムがあの時死んでいなかったら、俺たちは彼の存在を知っていただろうか?
"Yuri Kochiyama" by the Blue Scholars
Contributed by: mkochiyama

孫としての誇り

私が祖母についてもっとも尊敬するのは、大変広い心の持ち主であるということです。祖母の心は、助けが必要な全ての人々への情、寛容さ、愛に満ちています。祖母にとって、誰かの出身地や過去は問題ではないのです。祖母は、人の良い部分を評価し、助けの手を差し伸べます。そして、自らが考える信念に従い、たとえ勝つ見込みがないと言われても、戦います。祖母は、憎しみの壁を乗り越え、全ての人々が結束できるよう、コミュニティの橋渡しをしてきました。本当は慎ましくあるべきでしょうが、私は、祖母が大変素晴らしい人間であることを言わずにはいられません。彼女の孫であることを誇りに思います!

Yuri Kochiyama Speaking at Anti-War Demonstration
Contributed by: mkochiyama

Album Type

family history

mkochiyama — 更新日 6月 26 2019 12:50 p.m.


Login or register
to contribute to the Nikkei Album

Welcome to the NEW Nikkei Album!

We've launched Nikkei Album in beta, so everyone can now start uploading and creating their own albums. There may be things that don't work quite right yet. Please email us to report any errors.

Browse the Nikkei Album

最新情報を入手

最新情報メールの配信登録

Journal feed
Events feed
Comments feed

プロジェクトをサポート

ディスカバー・ニッケイ

ディスカバー・ニッケイは、互いにネットワークを広げ、日系の体験談を分かち合う場です。プロジェクトを継続し、より良いものにしていくためには、皆さまのご協力が不可欠です。ご支援お願いします!

サポートの方法>>

プロジェクト企画 全米日系人博物館

主な援助
日本財団