8 移民を授業する - 日系アメリカ人の記憶から学ぶ: 吉永道也ジェイムスさん

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日本の学校で使用する教材作成のために、全米日系人博物館でボランティアガイドをしている吉永道也ジェイムスさんにインタビューをしました。8歳から23歳まで日本に滞在し、戦後帰米しアメリカ陸軍で2年間を過ごされました。率直に語られる言葉が印象的です。

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© 2008 多文化社会米国理解教育研究会

Slides in this album 

不合理な日系人強制収容

日系人強制収容の出来事については、戦時中は日本に居て実際に体験していないけれど実に不合理だと思います。日本と日系人に対する偏見をもった利権と政治家に悪用されたのです。民主主義と自由平等をかかげる国アメリカとして、許せないことです。

Topaz Internment Camp
提供: Nekesu

第2次世界大戦までの日本のアジア進出や戦争はもちろん全面的に肯定するわけではないが、20世紀前半のアジアはそのほとんどが欧米諸国に植民地化されていた事実を皆忘れているようです。日本がアジアの解放を早めたという見方もあります。日本の悪行ばかりが云々されますが、韓国の近代化やインフラの整備など日本が行ったいいことも認められるべきでしょう。それこそ歴史を直視して欲しいものです。日本人だけが非難されるのは心外です。

Attack on Pearl Harbor, Hawaii
提供: yn

私の家族は終戦後、農地改革で農地をほとんど失い、生活も楽ではありませんでした。敗戦国日本は、住みやすい国ではありませんでした。

James Yoshinaga Family portrairt 1937
提供: yn

アメリカに戻ってから、渡航費を返すために、庭園業での芝刈りなどをして1年間働きましたが、戦時中の日本で暮らした私には別に苦にもなりませんでした。

Hideo Wataguchi mowing lawn in Leimert Park
提供: editor

戦時中の日本は物資の乏しさを補うために訓練も厳しく、帰米後召集されて入隊したアメリカ陸軍の歩兵の新兵教育の方が日本の旧制中学で受けた軍事教練よりも格段に楽で、国の貧富による人々の暮らしの違いを見せつけられる思いでした。

James Yoshinaga: Fort Ord 1953
提供: yn

多文化家族

長女は薬剤師ですが、フィリピン系の心臓医と結婚して2児の母、次女は法律事務所勤務でドイツ系の泌尿科医と結婚しています。

James Yoshinaga with daugthers
提供: yn

アメリカに渡ろうとする日本人へ一言

日本語をもっと大切にしてしっかり勉強して欲しい。日本語にある言葉まで代用されている和製英語を聞くと背筋が冷える思いです。

日系アメリカ人の個人史をつむぐ - 吉永道也ジェイムスさん
提供: team-nikkei-usa

吉永道也・ジェイムス

ロサンゼルス生まれ。1937年、8歳の時ロサンゼルスから両親の出身地である鹿児島に家族と共にに移住。旧制鹿児島工業専門学校建築科(現鹿児島工大建築学部)卒業後1952年、23歳で15年ぶりに単身帰米。翌1953年米国陸軍に召集され、2年間韓国で米陸軍第八軍団付の情報部員として勤務し、1955年6月に除隊。除隊兵に交付される奨学金を利用してカリフォルニア大学バークレー校建築学部に入学。建築学を専攻1959年卒業。卒業後38年間ロサンゼルス市の都市計画局に勤務し、1999年に退職する。

James Yoshinaga: Korean War 1955
提供: yn

Album Type

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team-nikkei-usa — 更新日 6月 28 2021 1:49 a.m.


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