オハヨウ・ボンディア

祖父は日本から約100年前に来伯。私はブラジル生まれ。だから、私はブラジルと日本との「架け橋」になりたい。私の心に深く刻まれた「にっぽん」は宝物。ふるさとのブラジルで守りたい。そんな思いを込めて書いたのが、このシリーズです。(Bom Diaはポルトガル語でおはよう)

identity en ja es pt

第12回 日本語訛について

学生の頃から「日系人はポルトガル語が下手だ」とよく聞いたものだ。

作文はもちろん、言うことも分かりにくい、言葉の発音が変で、とにかく日本語っぽいとか。

こういうことで、残念ながら退学する子もいた。

当時、店に入ると店員さんが日本人の話し方をマネシテ迎えることは少なくなかった。

大学でも、このような偏見をわたしは、ちょっとしたことからもすぐに感じ取った。ある日、ドイツ語を専攻していた日系の女の子が涙ぐんで言った。

「どんなに勉強してもダメだ。私の発音は日本語の訛があると先生は言う。私は日本語なんか知らないのに」

また、言語学のある教授は、難しい質問に限って、日系人の生徒にすることが多かった。

一般の日系人はこういうことは仕方ないと今でも思っているようだ。

しかし ...

続きを読む

identity en ja es pt

第11回 あなたの名前は?

わたしの名前はラウラ。原語はラテン語、意味は「成功」。残念ながら日本語の名は持っていない。

しかし、大多数の同世代の人はブラジルの名前を持っていない。

日本語の名前だけの場合、学校でクラスメートにからかわれたり、教師まで、言わなくてもいいことを言ってしまい、苦しい目にあっていた日系人は少なくなかった。

また、ポルトガル語での話し方が「おかしい」とか「下手だ」と言われ、登校しなくなった学生もいた。「いじめ」の一種である。

それは別の機会に話すことにして、名前の話に戻ろう。

シズコ、マサカズ ...

続きを読む

identity en ja es pt

第10回 映画少女の夢

                                                         I

わたしは母にくっ付いてばかりいた。母が食事の支度をしているときも食卓の上を覗いて、「これなあ~に?」と。

ものごころが付いた頃から台所で見かける絵に関心を持ちはじめた。今でも、そのことをはっきりと覚えている。わたしにとって特に魅力的だったのは、いわしの缶詰に描かれた絵とオートーミールの袋の絵だった。

いわしがメガネをかけていたように見えたので、「これはパパィだ」と言って母を笑わせていた。オートーミールに描かれていたクエーカの男性の絵はかつらをかぶっていたので、女の人と見間違えた。近所に住んでいたドイツ人の奥さんにそっくりに見えた。「なんで食べ物の袋に、あのおばさんが?」と。母は、なんとおもしろい想像をする子だと思っていたらしい。

そのうちに、今度は動く絵、映画にハマリはじめた ...

続きを読む

community en ja es pt

第9回 世の中はずいぶん変わったもんだ

母の好物はフェイジョアダで、父のはバカリョアダだった。三世のわたしは子どもの頃から「納豆」だった。

このことを言うのは今回が初めてだ。黙っているしかなかったことが、やっと言えるようになった。

何故なら、最近、日本食文化がブラジル人に認知されてきているからだ。

わたしが小・中学生の頃(60年代)、日系人の生徒は「ジャポネスは生魚とか青臭い生野菜食べるんだって?」とひやかされたものだ。

初めて勤めた学校でのエピソードを思い出す。一人の理科の女性の教師がわたしに直接言った。「あなたたちは変だ。腐らせた豆を食べるなんて!どこがいいの?ゲテモノ食い!」

なんと、ちょうど ...

続きを読む

food en ja es pt

第8回 まんじゅうの味

丸くて、中にはあま~いあずきのあん。これが和菓子のまんじゅう。ブラジル人も知っているドセ・デ・フェジョン。

これは母から聞いた話。八十数年前のこと。住んでいたのはシーティオ。

ある日、町からお客さんが訪れた。同じ日系人の方。おみやげは珍しいまんじゅだった。

子どもたちは、ほうきを戸の後ろにさかさまに。お客さんが早く帰るおまじない。

さあ、お客さんは帰った!子どもたちはみんなおまんじゅうに一直線!

一個のまんじゅうは四つに分けられた。母は十人兄弟。子どもたちは丸ごと味わうことはできなかった。その日のおやつは、そのまんじゅうだけだった ...

続きを読む