ディスカバー・ニッケイ

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に


2011年1月7日 - 2011年11月25日

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。



このシリーズのストーリー

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その4/8

2011年7月22日 • 篠田 左多江

その3>>発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。 ポストンはトゥーリレイクとは…

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その3/8

2011年7月15日 • 篠田 左多江

その2>>2.『ポストン文藝』の創刊と目的ポストンで最初に文学活動を開始したのは「ポストン歌会」で、1942年9月に第1回歌会が開かれたという記録がある。開所当時は印刷物の配布が禁止されていたため、歌会を開いても、そこで詠まれた短歌を印刷して配ることさえ許されなかった。 そこで川柳愛好者の矢形渓山と石川凡才(庄蔵)は川柳を書いた大きい紙を週に1、2回メスホール(食堂)入り口に貼り出した。36ヵ所の食堂に貼って歩くのに2日かかったというから、川柳にかける2人の熱意は大変なもの…

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その2/8

2011年7月8日 • 篠田 左多江

その1>>しかし収容者は協力してこの不毛の地を次第に人の住まいらしく変えていった。 まず人びとがしたことは、砂塵を防ぐための植樹であった。砂漠に生えているコットンウッドや柳の一種は厳しい環境に耐える強い生命力をもっていたので、挿し木で簡単に苗を作ることができた。収容者には農家も多かったので、このような作業は得意であった。木ばかりでなく、家の周囲には、デヴィル・グラスという芝草の一種も植えて芝生の代用にした。デヴィル・グラスは根が深く、畑にはびこると除去が難しい嫌われものの雑…

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その1/8

2011年7月1日 • 篠田 左多江

ポストン収容所(以下ポストンとする)では二つの文芸雑誌、『ポストン文藝』および『もはべ』が発行された。前者はポストン文芸協会により1943年2月、後者はポストン・ペンクラブによって3月に相次いで創刊された。とくに「ポストン文藝」は全ての収容所の雑誌の中でもっとも早く発行され、収容所が閉鎖になる2ヶ月前まで続いた。3年近く継続して発行された収容所雑誌は『ポストン文藝』のみである。 『若人』『怒濤』のような青年団機関誌、『鉄柵』のような文学誌とは異なり、『ポストン文藝』は一般的…

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その5/5

2011年6月24日 • 山本 岩夫

その4>>(5)その他詩は全部で25編ありが、素朴なものが多く、完成度の高い作品は極めて少ない。良き指導者に恵まれなかったことがその原因かもしれない。良秋(岩室吉秋)が6編の作品を発表しているほかは、ほぼ一人一編である。季節の風景を歌う作品がもっとも多いが、収容所生活の憂いと悲しみ、収容所生活ゆえの南カリフォルニアへの郷愁、平和を願う心などを歌う作品も目立つ。恋の詩も数編見られる。 H・N生「アラバマの空」と常石芝青「大悲心山」は心を打つ作品である。「アラバマの空」では幽囚…

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その4/5

2011年6月17日 • 山本 岩夫

その3>>4. 『ハートマウンテン文藝』の内容(1)短歌この文芸誌の「歌壇」は一般読者にも投稿をよびかけたが、ほぼ心嶺短歌会の会員による作品発表の場であったといってよい。心嶺短歌会は毎週2回(後に週1回となる)の歌会を持ち活発な活動を行っていた。 高柳沙水が短歌を詠む人に求めるものは「現在我々が直面してゐる境地から取材」することであった(5月号)。彼の作品は自然や季節の変化をよく取り上げるが、時局にも強い関心を示している。戦況を常に意識し、劣勢な戦いを進める日本に対して連帯…

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このシリーズの執筆者

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)


立命館大学名誉教授。専門は日系アメリカ・カナダ文学。主な業績は共著『ヨーロッパ現代文学を読む』(有斐閣、1985)、共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』全22巻、別冊1(不二出版、1997-1998)、共著『戦後日系カナダ人の社会と文化』(不二出版、2003)、共編著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『ヒサエ・ヤマモト作品集―「十七文字」ほか十八編―』(南雲堂フェニックス、2008)。

(2011年1月 更新)