ブラジルの日本人街

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。

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第5回 ピニェイロス地区-斜陽の日本人街-

サンパウロ市とその周辺には、「日本人街」と言われたいくつかのエリアがあった。戦前から戦中にかけて、いわゆる「コンデ界隈」と呼ばれたエリアが日本人 街としてはもっとも大きかったが、ついで日系人口が集中していたのはピニェイロス地区であり、200人ほどの日系人が居住していたとされている(半田, 1970, p.573)。その次が市立中央市場の周辺で、通りの名を取ってカンタレーラ街と呼ばれていた(地図5-1参照)。

ピニェイロス地区は、サンパウロ市の中心から約7キロで、古くからソロカバやパラナ方面への街道沿いの宿場町を形成していた。19世紀からは市西部の農産 物を供給するための重要な拠点で、特に同地区にあったピニェイロス市場は、1920年代前半からサンパウロ郊外コチア方面の日系小農家によって生産された バタタ ...

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第4回(番外編)イグアス移住地-日本文化と匠の里-

今年2007年の1月から2月にかけて、パラナ州北部とパラグアイを旅した。この連載の主旨は、ブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えることだが、今回は番外編として、筆者が訪れたパラグアイの日系移住地イグアスについて筆者の印象をまじえて書いてみたい。

イグアスの大瀑布で有名なフォス・ド・イグアスはパラナ河をわたる一本の橋でパラグアイとつながっている。この「友情の橋」を渡ると、パラグアイ第二の都市シウダー・デル・エステである。中国系移民(主に台湾系)が多いこととフリーポートであることから、「南米の香港」とも呼ばれる。このシウダー・デル・エステと首都アスンシオンを結ぶ国道7号線を走るローカルバスで約1時間。キロメトロ・クワレンタ ...

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第3回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(3)-戦争の嵐と戦後の混乱、そして復活へ

ブラジル最初の日系教育機関である大正小学校がサン・ジョアキン通りに移った後も、コンデ界隈の日本人街は発展し続けた。1930年代後半から1940年ごろまでが、その全盛期であったといわれる。

    このころのサンパウロ市の邦人社会も、1914~15年時代のまずしさから、おいおいぬけだして、コンデの住民たちも「坂を上がって」コンセリェ イロ・フルタード全盛時代となり、コンデ・ド・ピニャール、タバチングェーラ、イルマン・シンプリシアーナへとのびていった(半田, 1970, p.572)。

1933年頃のコンデ界隈の日系人口は約600人と推計され ...

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第2回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(2)-大正小学校の誕生

戦前のブラジルの日系教育機関は多くが日本人会や父兄会を経営基盤としていたので、当然日系人が集中する地域に開設された。ここでは、ブラジル最初の日本人街である「コンデ界隈」(地図2, 3, 4参照)に創設された大正小学校と当時の状況について概観しておきたい。

大正小学校は、ブラジル最初の日系教育機関としてこのコンデ界隈の中心、コンデ・デ・サルゼーダス通りに創設された。日系住民たちがこのエリアに集 まってきた理由はさまざまだが、子弟の教育問題も原因の一つであった。実際、都市部に限らず、移民一世の親たちにとって、子弟の教育は切実な問題であっ た。『ブラジル日本移民八十年史』(以下 ...

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第1回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(1)-そのはじまり

サンパウロは坂の街である。セントロと呼ばれるダウンタウンを歩き回ってみると、その坂の多さに辟易する。なぜこんな坂の多いところに街をつくったのかと、思わずつぶやきたくなる。

ジョゼ・デ・アンシェタ神父をはじめとする13名のイエズス会士たちが、ピラチニンガの丘に聖パウロを守護聖人とする教化村を創設したのは1554 年の1月25日であった(FAUSTO, 1994, p.93)。丘(坂)の上に村をつくったのは、敵対するインディオたちの襲撃を恐れてのことである。以後、サンパウロは、この丘の上につくられた村を中心 に、坂を上ったり下りたりして発展していくこととなった。この村の位置は現在、パティオ ...

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