ディスカバー・ニッケイ

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ブラジルの日本人街


2007年3月16日 - 2008年7月24日

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。



このシリーズのストーリー

第3回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(3)-戦争の嵐と戦後の混乱、そして復活へ

2007年4月27日 • 根川 幸男

ブラジル最初の日系教育機関である大正小学校がサン・ジョアキン通りに移った後も、コンデ界隈の日本人街は発展し続けた。1930年代後半から1940年ごろまでが、その全盛期であったといわれる。 このころのサンパウロ市の邦人社会も、1914~15年時代のまずしさから、おいおいぬけだして、コンデの住民たちも「坂を上がって」コンセリェ イロ・フルタード全盛時代となり、コンデ・ド・ピニャール、タバチングェーラ、イルマン・シンプリシアーナへとのびていった(半田, 1970, p.572)…

第2回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(2)-大正小学校の誕生

2007年4月5日 • 根川 幸男

戦前のブラジルの日系教育機関は多くが日本人会や父兄会を経営基盤としていたので、当然日系人が集中する地域に開設された。ここでは、ブラジル最初の日本人街である「コンデ界隈」(地図2, 3, 4参照)に創設された大正小学校と当時の状況について概観しておきたい。 大正小学校は、ブラジル最初の日系教育機関としてこのコンデ界隈の中心、コンデ・デ・サルゼーダス通りに創設された。日系住民たちがこのエリアに集 まってきた理由はさまざまだが、子弟の教育問題も原因の一つであった。実際、都市…

第1回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(1)-そのはじまり

2007年3月17日 • 根川 幸男

サンパウロは坂の街である。セントロと呼ばれるダウンタウンを歩き回ってみると、その坂の多さに辟易する。なぜこんな坂の多いところに街をつくったのかと、思わずつぶやきたくなる。 ジョゼ・デ・アンシェタ神父をはじめとする13名のイエズス会士たちが、ピラチニンガの丘に聖パウロを守護聖人とする教化村を創設したのは1554 年の1月25日であった(FAUSTO, 1994, p.93)。丘(坂)の上に村をつくったのは、敵対するインディオたちの襲撃を恐れてのことである。以後、サンパウロは…

はじめに

2007年3月16日 • 根川 幸男

サンパウロ東洋街-その混沌の中に身を沈めているとき、めまいとともに何度も同じ疑問が頭をもたげたことがある。「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」 私は平素、ブラジルの大学で「日本語」や「日本文化」などの科目を担当している。ブラジル人学生たちとのやりとりで、彼らの理解の中にしばしば、日本人は閉鎖的だというステレオタイプ的なイメージを発見する。いや、日本人みずからも、「日本人はどうも閉鎖的で、おとなしすぎる」というような言説を…

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このシリーズの執筆者

1963年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)(総合研究大学院大学)。移植民史・海事史・文化研究専攻。ブラジリア大学文学部准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター特定研究員。同志社大学、滋賀県立大学などで兼任講師。主要著書:『「海」復刻版』1〜14巻(柏書房、2018、監修・解説)、『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房,2016)、『越境と連動の日系移民教育史——複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016。井上章一との共編著)、Cinquentenario da Presenca Nipo-Brasileira em Brasilia.(FEANBRA、2008、共著)

(2023年1月 更新)