ディスカバー・ニッケイ

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日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー


2018年4月24日 - 2018年6月5日

この連載では、第二次世界大戦の少し前、バンクーバーの日系カナダ人聖公会の家庭に生まれたバジル・タダシ・イズミのライフヒストリーを紹介する。バジルは6歳の時、家族と共にバンクーバーでの生活を追われ、その後スローカン湖近くにあるいくつかの収容所に抑留された。戦争が終わり、家族は日本へ送還されたものの、彼はその3年後、12歳の時に単身ブリティッシュコロンビアに戻り、以来そこで暮らしている。

バンクーバーにある日系カナダ人の聖公会、すなわち聖十字教会(1970年までは聖十字ミッションと呼ばれていた)は、幼少期から現在に至るまで、バジルの人生において重要な役割を果たしてきたので、第1回と第2回では、聖公会と日系カナダ人との関係について、特にバジルの生い立ちに関連するいくつかの出来事に焦点を当てながら、ごく簡単に歴史的背景を説明していく。第3回からバジルの生い立ちを述べていく。

第1回から読む >>


謝辞: 本シリーズの日本語訳に関して、翻訳者の出石美佐氏に感謝の意を表します。出石氏はプロのツアーガイドとして働く傍ら、和歌山県美浜町の中高生で構成される「語り部ジュニア」の指導的立場でまとめ役を務めています。語り部ジュニアは、英語と地元のカナダ移民にまつわる豊かな歴史を学び、家族のルーツを求めて訪れる日系カナダ人観光客に英語で案内も行っている。


カナダ プロテスタント 土地所有権奪取 強制移動 教会 日系カナダ人 横須賀 疎開 第二次世界大戦下の収容所 聖十字教会 英国国教会

このシリーズのストーリー

第7回 バジルと聖十字聖公会

2018年6月5日 • スタンレー・カーク

第6回を読む >> 前述したように、バジルの両親はともに聖公会聖十字教会の熱心な信者で、彼も子供の頃、収容所に移動させられる前は聖公会の日曜学校や幼稚園に通っていた。日本からカナダに戻ってきてからも、おばや祖母とバーノンにある聖公会に通い、1954年にノース・バンクーバー1に引っ越したときは、最寄りの聖公会セント・ジョン・エヴァンジェリストに通った。 戦後、西海岸地域に戻ったころ、日系カナダ人聖公会信者は教会で祈ること許されなかった。しかし、バジルは差別を感じたことはな…

第6回 カナダでの生活

2018年5月29日 • スタンレー・カーク

第5回を読む >> バジルは1949年からバンクーバーに引っ越す1954年まで、祖母やおばたちとバーノンで過ごした。「収容所時代、彼らは自主運営地1の一つで、ブリティッシュコロンビア州のリロオエットの郊外にあるメント鉱山にいました。私のもう一人のおばは、祖母と祖父と一緒にリロオエット東部に住んでいました。 祖父は1944年に老衰のためリロオエットでなくなりました。戦争が終わった時、おば達の家族と祖母はB C州のバーノンに移りました。戦前そこにはかなりたくさんの日系カナダ人…

第5回 日本への送還とカナダへの帰還

2018年5月22日 • スタンレー・カーク

第4回を読む >> 日本への送還 家族が日本へ送還されたとき、バジルは9歳だった。彼の両親がなぜカナダ東部への移住ではなく日本へ行くことを選んだのか、バジルがその理由を聞かされたことは一度もない。日本に行くことを選ぶその主な理由は、日本にいる親戚の行く末を案じてだが、バジルには両親が特に心配していた記憶はない。しかしずっと後になって、母がその決断をしたんだと教えてくれた。彼は、「母は、カナダ政府の我々に対する扱いに心底嫌気がさしていたから日本に行くことを選んだのだと思い…

第4回 退去と収容

2018年5月15日 • スタンレー・カーク

第3回を読む >> バジルがちょうど幼稚園を卒業した頃、退去と収容が始まった。当初、父親は健康で丈夫な若者たちとともに道路建設現場に送られ、バジルと母親はバンクーバーからブリティッシュコロンビア州東部、スローカン・シティの収容所に直接送られた。バジルは、収容所に行くために汽車に乗ったときのことを、はっきりと覚えている。汽車に乗るのは初めてだったので、彼はわくわくしていたという。でもなぜ汽車に乗るのか、どこへ行こうとしているのかは全くわかっていなかった。 スローカン・シテ…

第3回 バジル・イズミの誕生と家族背景

2018年5月8日 • スタンレー・カーク

第2回を読む >> バジル・タダシ・イズミは1937年4月25日にバンクーバーの総合病院で生まれた。彼はH・M・シモムラ医師の手によって取り上げられた。シモムラ医師はのちに、ヘスティング・パークやタシメ収容所で厳しい状況下に置かれていた数多くの患者の治療をしたことで日系カナダ人の信頼を得た人物である。バジルには二人の妹がいた。二人とも強制収容所時代に生まれた。上の妹メグミ・グレイスは1944年4月22日にニュー・デンバー病院で生まれ、下の妹エミコは1945年8月6日に…

第2回 教会財産を失ったことへの日系カナダ人の気づき

2018年5月1日 • スタンレー・カーク

第1回を読む >> 1949年4月、終戦からおよそ4年後、日系カナダ人の海岸地域への帰還禁止令が解かれ、バンクーバー・エリアに戻る人が出始めた。戦前の、ほとんどの人がスティーブストンやパウエル・ストリートおよびその周辺に住んでいた時と違い、帰還者の多くが市内のあちこちに散らばって住むようになった。 結果として、日系人聖公会信者の中には、近くにある日系人のためのものではない聖公会1に通う人が出てきた。一方で、他のキリスト教会派の教会に行く人もいた。戦前に住んでいた場所に戻…

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このシリーズの執筆者

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)