ディスカバー・ニッケイ

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アンデスを超えたニッポン人


2010年12月15日 - 2011年1月12日

歩いてアンデス山脈を超え、アマゾン源流をカヌーで下りボリビアに入国。寒さと暑さの両極端による病気やジャングルの猛獣に怯えながらの地獄の旅であり、この旅をした人々は後に「ペルー下り」と呼ばれた。100人ほどの「ペルー下り」が、ボリビアのリベラルタに漂着した当時、その人口は3000人に満たなかった。それから100年が経過したいま、10万人を超える街になった。

このコラムでは、JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」に紹介されたリベラルタの日系人の話を紹介します。

アンデスを越えたニッポン人>>



このシリーズのストーリー

リベラルタのニッポン人 (4) -麻生 直衡-

2011年1月12日 • 日比野 祥子

43歳。沖縄県出身。那覇市在住の頃、友人であるペルー出身の日系家族と共にボランティアグループに参加していたときに、偶然何かで「リベラルタの沖縄出身日系人が、沖縄のことをしりたがっている。」という記事を見た。 それなら自分も役にたてるかもしれないと思った。 これがリベラルタを知るきっかけだった。 * * * ボランティア活動を通して知り合ったボリビア人が帰国したのを機に、自身もボリビアを初めて訪れた。 その後、日本語教育の勉強をしたのち、2004年から2006年にかけて、日…

タイムスリップ・リベラルタ 1999年 -日系3世に生まれて- その2

2011年1月5日 • ヤスカラ・ハヤシダ

>> その1ところで私の祖父林田両太郎は、1908年4月7日に、第5回航海船「厳島丸」で横浜港を出発しました。当時、22歳という若さでした。5月21日にペルーのカリャオ港に到着し、オルヤで汽車を降りた後、徒歩でチャンチャマヨのナランハル耕地へ向いました。 その頃、アマゾン川流域は空前のゴム景気にわき、ペルー移住者の多くはアンデス山脈を超えてボリビアに向いました。しかし日本とボリビアの通商条約締結前であったので、日本政府の保護などはなく、日本人たちは丸裸同然の状態で入国したの…

タイムスリップ・リベラルタ 1999年 -日系3世に生まれて- その1

2011年1月4日 • ヤスカラ・ハヤシダ

私は日本人を祖父に持つ日系3世のボリビア人です。しかし18歳になるまで、日本語や日本文化を学ぶことはありませんでした。父は、日系2世でしたが、父も私もボリビアで生まれ、教育もボリビア人として受けました。 そのような環境で育った私ですが、幼い頃からなんとなく日本語に興味があり、学んでみたいと思っていました。しかし母に反対されて、ボリビア日本文化センターの日本語教室に通うことはできませんでした。18歳になったとき、ようやく日本語教室に通う機会を得ることができました。この日本語…

リベラルタのニッポン人 (3) -義元 徳憲-

2010年12月29日 • 日比野 祥子

73歳。沖縄県出身。 1961年リベラルタに入る。当時23歳。日本から船に乗りブラジルへ。そこから汽車でボリビアサンタクルスへ。ちょうどボリビア独立記念日と重なり、2週間サンタクルスに滞在の後リベラルタへ。父、母、妹の4人で入った。当時は思っていたのとあまりに違ったのでとても悔しかった。 ゴム景気によって沢山の外国人がやってきた。日本人も例外ではなくその頃5000人程の日系人がおり、一番多いころで日本人は600人いた。1980年頃からはゴム景気も下降し、入ってくる外国人も減…

リベラルタのニッポン人 (2) -義元 富子-

2010年12月22日 • 日比野 祥子

70歳。沖縄県出身。1961年、叔母の呼び寄せによりリベラルタに入る。(叔母の夫はペルー下り。この時、既に他界しており、叔母は一人でリベラルタに居た。)父、母、兄、本人の4人。当時20歳。 飛行機でリベラルタへ。空港に着くなり、歩いても、歩いても街が見えてこない。 白いワンピースが汚れ、ハイヒールが泥だらけになったころ、「Plaza(広場)はどこですか」と尋ねたところ「今あなたが居る場所がPlaza(広場)です」と言われた。 周りには牛と草と木しかなかったので、ここがPl…

リベラルタのニッポン人 (1) -近野 房江-

2010年12月15日 • 日比野 祥子

ボリビアのリベラルタ移民について調べるにつれ、リベラルタにかけられた希望やそれを叶える為の途方もない苦労が、涙ながらにお話を聞かせて下さった一世の方々からも窺えました。上手く文章に出来なかったのがもどかしいですが、リベラルタ移民が残した辛苦の足跡が紛れも無くボリビア日本人移住の歴史の道に繋がっている事をより多くの方に知って頂ければ幸いです。 * * * 84歳。熊本県出身。 1936年、祖父の呼び寄せによりリベラルタへ。父(一男)、母(ハツヨ)、姉、フサエさんを含め4人姉…

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このシリーズの執筆者

オズワルド・ハヤシダさんとテレサ・オリベルさんの長女として、1969年9月2日にリベラルタで生まれる。妹3人と弟2人の6人兄弟の一番上。祖父の林田両太郎さんは熊本県あかた群の出身で、1908年にペルーへ渡った後、1910年にリベラルタに定住した。祖父のベナンシア・オヨラさんはリベラルタ出身。ハヤシダ家は祖父の代から数えて100年まえからリベラルタに根を下ろしている。

(2010年12月 更新)


1983年滋賀県生まれ。2009年4月から青年海外協力隊員としてボリビア共和国ベ二県リベラルタ市にて活動中。赴任後、ここリベラルタ市が約百数十年前に日本人が初めに移り住んだ地と知る。かつては600人を超える日本人が滞在していたにも関わらず、現在では日本文化の継承が稀薄である事に興味を持ち、移住者の方々へ話を聞いて廻る。その間、数少ない資料を通し、リベラルタ発展の歴史と日系人の貢献について学ぶ。

(2010年12月 更新)