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長島 幸和

(ながしま・ゆきかず)


千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。

(2014年6月 更新)


この執筆者によるストーリー

父・天野芳太郎とのこと - 長女・玻満子さんの思い出 - その2/4

2012年7月17日 • 長島 幸和

その1>>「プリーズ・カム・イン」しかし、父親はいてもいなくても同じだったようだ。「父は毎晩あちこちに出かけて行ってました。ビジネスの話であったり、講演であったり。たまに会うと、他所の人のようでした」 それから4年間、玻満子さんは鵠沼に住んだが、シュナイダーさんとの出会いは、全く偶然だった。ある日、鎌倉の眼科医に行った帰りのこと。駅のプラットフォームで電車を待っていると、後から声を掛ける人がいる。シュナイダーさんだった。軍諜報部(MIS)の一員として日本で仕事をしていたが、…

父・天野芳太郎とのこと - 長女・玻満子さんの思い出 - その1/4

2012年7月10日 • 長島 幸和

天野芳太郎さん(1898─1982年)については、既に多くのことが語られている。天野さんの生涯を紹介する書籍も多く、天野さん自身、数々の著書を著した。中南米での事業の成功。アンデス文明の調査研究。収集した文化遺跡を集めた博物館。ペルー政府からの勲章受章。その足跡は「日本ペルー協会/天野博物館友の会」のサイトでも細かく紹介されている。 しかし、最初のペルー訪問以来、長年天野さんに世話になった東京大学名誉教授(ラテンアメリカ歴史学者)の増田義郎さんによると、「天野氏は自己の過…

日系仏教徒らの戦争
第3回 母を殺した国の兵として -水野ハリー義徳さん-

2010年10月28日 • 長島 幸和

第二次大戦中、多くの日系人が「敵性外国人」として強制収容されたが、同時に、多くの日系人が米国の兵士として戦場に赴いた。強制収容所に親を残したまま、そこから志願して兵役に就いた日系の若者たちもいた。彼らは、その屈折した心情を晴らすかのように、戦場で数々の殊勲を上げたが、第二次大戦後、米陸軍の軍属(アーミー・シビリアン)として日本で働き、軍事情報部(MIS)部員として朝鮮戦争に従軍した水野ハリー義徳さん(83)=ユタ州ビンガム出身=の場合、屈折の度合いはさらに大きかったのではな…

日系仏教徒らの戦争
第2回 自問の中、仏教と出会う -長谷川良子さん-

2010年10月21日 • 長島 幸和

第二次大戦時の日系人強制収容は、米国史における大きな「汚点」として、1988年に当時のレーガン大統領が謝罪、収容された人たちには一人2万ドルの補償金が支払われたが、一方で、日本舞踊や詩吟、そして各種の文芸まで、収容所の中でさまざまな日本文化が育っていったのも事実だった。収容所が大勢の人たちに、日本文化との「出会いの場」となったのだ。仏教と出合った人もいた。後に曹洞宗北米別院禅宗寺の婦人会会長を務める長谷川良子さん(86)も、そんな一人だった。 戦争が始まった年の春、長谷川…

日系仏教徒らの戦争
第1回 ツールレークから広島へ -安孫子洋さん-

2010年10月14日 • 長島 幸和

今年は終戦から65年。戦争の記憶は年々風化の一途をたどるが、第二次大戦中に「敵性外国人」として強制収容所での生活を余儀なくされた日系アメリカ人や、まさにその強制収容所から兵役に志願した日系二世にとって、戦争の記憶はいまだに鮮明だ。その中には多くの仏教徒がいたが、そこには、仏教徒ならではの「戦争」や「戦後」があった。 * * * 西本願寺ロサンゼルス別院の現輪番、安孫子洋さん(69)=ロサンゼルス出身=が強制収容所に送られたのは、満一歳のころだった。母親と2歳半年上の兄ととも…

老いても書く喜び学ぶ -敬老引退者ホーム文章教室-

2010年9月3日 • 長島 幸和

ロサンゼルスのボイルハイツにある敬老引退者ホームで昨年、ちょっと変わったクラスが開かれた。日英両語の文章教室である。同ホームには墨絵や陶芸などさまざまな趣味のクラスをはじめ、ヨガや太極拳などのエクササイズのクラス、カラオケや詩吟などの音楽関係のクラス、それに日舞やフラダンスなどの勉強会まで、合わせて30以上のクラスがあり、加えてトランプや麻雀などのゲームの時間もあって、クラスからクラスへとけっこう忙しい居住者も少なくないのだが、文章教室というのはこれまでなく、受講者らは「た…

文化の深さに誘われ -三條勘菊さん-

2010年8月12日 • 長島 幸和

今年(2009年)の第69回二世週日本祭のパレードが行われた日、踊りのグループを先導してリトル東京を一巡した三條勘菊さんは、パレードの終点となる一街とセントラル通りの角を曲がったところで、大勢の一般参加者に囲まれて、大きな笑みを顔いっぱいに浮かべていました。パレードには子供ころから何度も参加していたし、師匠の三條勘弥さんが振り付けるのを長年手伝っていましたが、自ら音頭の振り付けを担当したのは今回が初めて。その責任から、やはり「何事もなく、無事に終わってほしい」という気持ちは…

ある被爆者の挑戦 -ポール・エンセキさん-

2010年8月5日 • 長島 幸和

在米の被爆者について、すでにいろいろなことが書かれてきました。さまざまな本も出版されており、もうほとんど語り尽くされたような感じもするのですが、先日、米国広島・長崎原爆被爆者協会の据石和さんから、ある被爆者の話を聞いた時には「やはり、まだまだ歴史の闇の中で埋もれたままになっている人たちは大勢いる」との感を強くしたものでした。 その人は、第二次大戦時にマンザナー強制収容所で生まれ、広島で原爆に被爆したポール・エンセキ(煙石)さん(64)です。エンセキさんはこのほど、原爆被爆…

日本語で書こうとした理由 -グレース・フジタさん-

2010年7月15日 • 長島 幸和

ボイルハイツにある敬老引退者ホームでこの春、ちょっと珍しいクラスが開かれました。同ホームでは、引退した日系人らが余生を有意義に楽しく過ごせるよう、各種の習い事から体操までさまざまなクラスを設けているのですが、この春開かれたのは日英両語による文章教室で、指導したのは、羅府新報の元英語部編集長、現在は作家として活躍している平原直美さんです。 クラスは週一回で全6週間。ホームの居住者ら十数人が受講しました。大半は米国生まれの日系二世で、日本生まれの日本人は3人ほど。二世はほぼ全員…

解体していく「日本人」 -山城 正雄さん-

2010年6月23日 • 長島 幸和

私がアメリカに来てから、この5月で丸30年になりました。すでに、日本で過ごした年月よりもアメリカでの日々の方が長くなっています。自分が日本人なのか、それとも日系人なのか、その辺の自覚が年々怪しくなってきていますが、それは別に今始まったわけでもありません。山城正雄さんの「帰米二世―解体していく『日本人』」(五月書房)を最初に読んだころは、すでにそうした、いわゆる「アイデンティティー」というものの揺れが生じていたように思います。 ハワイ出身の山城さんは、2歳の時に沖縄に帰国、…

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