福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。

(2008年2月 更新)

migration ja

難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。

事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その時、鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。

内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考えた内田は、自分以 外の若者を少しでも多くカリフォルニアに派遣させたいと望んだ ...

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花の声に耳傾ける -北島蓉幸さん-

アメリカ人の日本にはない発想に驚く

日本の大学で地質工学を専攻し、卒業後は造園会社に就職。大学時代には既に入門していた北島さんの草月歴は37年になる。

「大きさが違うだけで、庭も生け花も本来の作り方は同じです。生け花の主、添え、控えの構造は日本庭園にもそのまま当てはまります」

日本造園技師として渡米したのは1979年。アメリカでも、草月の沖中春洋先生に師事した後に自分でも教え始めた。日本で師範の資格を取得していた北島さんに、日米の生け花の違いを聞いた。

「アメリカ人は、日本人が考えつかないような色合わせと、素材の組み合わせに優れています。自分にはない発想だと感心させられることがたびたびあり ます。教えられたからというのではなく、自然に身に付いているものではないかと思わされます。また、素材が豊富なことも日本以上にチャンスに恵まれている 点です。たとえば ...

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education ja

「アメリカで育つ日本の子どもたち」-編著者 片岡裕子さんに聞く-

全米各地の日本語教育の実態と、補習校や日本語学校に通う日本の子供たちの意識や日本語力について調査した「アメリカで育つ日本の子どもたち」を著した片岡裕子さんは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本語学科で教授を務めている。

片岡さん自身、子供たちをバイリンガルに育てることに力を注いだ母親の一人である。

アメリカ生まれの子供たちの第一言語を日本語にしたいと望んだ片岡さんは、家庭の中での言語を日本語に統一したそうだ。片岡さんは当然日本語、アメ リカ人の夫も日本語を話す。ホームステイしていた日本人の女性も子供たちに日本語で話しかけた。カリフォルニアに移る前、オレゴンに住んでいた一家の元には、週に1度、日本のテレビ番組が送られてきた。「テレビは基本的に子供には見せない方針だったが日本語の番組だけは例外だった」と片岡さん。

子供たちに日本語を幼い頃から身に付けさせた理由を、「ネイティブスピーカーとしての勘を植え付けたかったから」と話す。「てにをは」などはネイ ティブとしての長年の勘で ...

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education ja

新二世のアイデンティティー: 補習校か、日本語学校か?

私の子供たちはアメリカ生まれの二世である。私と私の夫は日本生まれの日本人。そんな日本語を第一言語とする我が家の長男が最初に通った学校は、ロサンゼルス郊外のトーランスにある日系の幼稚園だった。この幼稚園では英語は一切使わず、徹底した日本式の幼児教育を行っている。1年後、3歳になった息子は英語のプレスクールにデビューした。当時、英語はゼロの状態だったが、何とかプレキンダーガーテン、キンダーガーテンと進級し、地元レドンドビーチ市の公立小学校の1年生になった。今から5年前のことである。

さて、この段階で、日本語教育に関する選択肢が生まれた。ロサンゼルス近郊には、日本人と日系人の人口に比例するように、数多くの日本語教育機関がある。駐在員の子弟が日本に帰国した時に困らないように全教科を日本語で学ぶのが、日本語補習校。ただし、現在は生徒の半数以上が永住家庭の子女である。日本語だけを学ぶことを目的に授業を行っているのが日本語学校 ...

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母国アメリカと戦った日系人たち その3: 兄弟で敵味方に分かれて戦う-阿久根三郎さん-

その2 (大森馨一さん)>>

阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を習い始める。自分と兄弟たちを守る手段だった。

戦争が始まる前、上の兄2人はアメリカに戻った。そしてアメリカ軍へと入隊した。三郎少年と弟は日本軍に志願した ...

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