ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/author/tsuchida-emiko/

エミコ・ツチダ

(Emiko Tsuchida)

@emikotsuchida

エミコ・ツチダはサンフランシスコ在住のフリーランスライター兼デジタルマーケターです。混血のアジア系アメリカ人女性の表現について執筆し、トップクラスのアジア系アメリカ人女性シェフ数名にインタビューしてきました。彼女の作品は、ヴィレッジ・ヴォイス、アジア系アメリカ人メディアセンター、近日発売予定の「Beiging of America」シリーズに掲載されています。彼女は、強制収容所を体験した日系アメリカ人の体験談を集めるプロジェクト「Tessaku」の創始者でもあります。

2016年12月更新


この執筆者によるストーリー

テッサク
土田みつき - パート3

2018年1月10日 • エミコ・ツチダ

パート2を読む>>あなたと友達が火を見ている写真について教えていただけますか? 友人と私はキャンプの反対側で火事を見ることができました。そこは映画を上映していた講堂でした。炎と煙がその方向に渦巻いているのが見えました。もちろん遠くでサイレンの音も聞こえました。私たちは見ていて、キャンプのデザインも見えました。同じブロックの男性は写真を撮っていて、「そのまま立って」と言いました。私たちは振り向いた方がいいかと思いましたが、彼は「ダメだ、火事を見ろ」と言いました。何…

テッサク
土田みつき - パート2

2018年1月9日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>集合センターへ出発した日はどうでしたか? 覚えているのは、駅で列の片側で待っていたことだけです。そこには赤ら顔の白人が大勢いて、みんな私には赤く見えました。覚えているのは、この男たちが銃を持っていたことです。銃を向けてはいませんでしたが、私たちには何ができたのでしょう? 銃を携帯する必要すらなかったのです。その後、私は違いに気づきました。なぜ私たちは名札を付けてここに立っているのでしょう? 私たちを虐待していたわけではありませんが、もちろ…

テッサク
土田みつき - パート 1

2018年1月8日 • エミコ・ツチダ

「軍のトラックが止まると、誰かが『家族は何人いるの?』と叫ぶんです。そしてトイレットペーパーを投げ捨てられ、それを拾わなければなりませんでした。人間としての尊厳の欠如が、延々と続きました。」 — 土田 光樹私が父にキャンプの鮮明な思い出を尋ね始めたとき、父はアルカリ性の砂嵐で子供たちが逃げ隠れしなければならなかったことや、サンタアニタの馬小屋の突き刺すような悪臭が忘れられなかったことを話してくれました。馬のために作られた巨大なノズルの下でシャワーを浴びるのは怖かったことや、…

テッサク
岡家 - パート 2

2017年12月20日 • エミコ・ツチダ

パート1を読むダイアナ・ツチダ(以下、DT):戦前、偏見を感じたことはありましたか?エヴァ:そうですね、私たちは他の日本人と一緒に農場に住んでいました。小作農をしていました。私たちが通っていたギッシュロードのオーチャードスクールの生徒の4分の3は日本人でした。ケイシー・コー(CC):農場では何を育てていましたか?ジョージ: ラズベリー、キュウリ。父がラズベリーに水をやるのを手伝うために、午前 2 時に起きなければなりませんでした。私はまだ小学生でした。 CC: ということは…

テッサク
岡家 - パート 1

2017年12月19日 • エミコ・ツチダ

「米国民としての私の権利はすべて、一体何のために奪われたのか?日本が米国と戦争をしたから?私たちは米国人だった。それが私が本当に憤慨していることだ。」 — アモス・オカこの岡家の座談会は、80代後半から90代前半の5人の兄弟が収容所や第二次世界大戦の思い出について率直に語る貴重な機会となった。弟や妹は気楽な遊びを、兄や妹は農業や苦難を思い出すが、全員が、口には出さなかったものの、一世の両親が経験したであろう悲しみを今でも覚えている。「パパは大変だったよ。家族の父親だったのに…

テッサク
ジョージ・シミズ - パート2

2017年12月7日 • エミコ・ツチダ

パート1を読むあなたと奥様はどうやって出会ったのですか?長い話です。聞いてみますか?はい、きっといい話になると思います。これは1941年6月、真珠湾攻撃前のことです。私はロサンゼルスに行き、藤坂家に滞在しました。当時はボーイズクラブやガールズクラブがたくさんあり、ジョージ・藤坂(友人)はシャムロックスのメンバーでした。そして私の妻メアリーは女子学生クラブのメンバーでした。それで私がロサンゼルスに着くと、メアリーの友達が電話して「メアリー、土曜の夜、シャムロックスとやるスケー…

テッサク
ジョージ・シミズ - パート 1

2017年12月6日 • エミコ・ツチダ

「後ろから船員が『白旗、2時の方向、400ヤード』と言っているのが聞こえました。あれは魔法の言葉でした。決して忘れません。」 — ジョージ・シミズ MISの退役軍人ジョージ・シミズさんは、今年6月に97歳の誕生日を迎えたばかりだ。誰もが晩年を全うしたいと願うしかないのに、彼の人を引き付ける人生観と鮮明な記憶力は年齢を感じさせない。ジョージさんは文化や国境を越えた素晴らしい経験をしてきた。東京の高校に通い、ダートマス大学の1年生クラスでは4人の有色人種のうちの1人だった。太平…

テッサク
グレース・イズハラ

2017年11月17日 • エミコ・ツチダ

「父がどれだけ怒っているか、二度と投票しないと言っているのを覚えています。そして父は二度と投票しませんでした。」 —グレース・イズハラグレース・イズハラさんの家族は、第二次世界大戦中に収容所での捕虜生活を逃れた「幸運な」数少ない家族のうちの1つで、東のユタ州に向かい、戦時中の重要な主食であったテンサイ農場で働きました。「幸運」だったというのは、独立後も新しい町クリアフィールドでは反日感情が依然として強く、その結果、グレースさんが今でも思い出せるいくつかのトラウマ的な出来事が…

テッサク
シャーマン・キシ - パート2

2017年11月1日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>訓練を受けた後、それが日本の占領につながることを認識していましたか?はい、私たちはずっとそれを予想していました。まず、1945年7月にサンフランシスコからフィリピンに送られました。アメリカ軍の一部であるATIS (連合国翻訳通訳部)があり、私たちはマニラの近くに駐留していました。私たちは7月末にそこにいましたが、もちろん8月中旬に原爆が投下されました。それで9月に私たちはATISの一員として日本に送られました。そこでの思い出は何ですか?そ…

テッサク
シャーマン・キシ - パート 1

2017年10月31日 • エミコ・ツチダ

「補償金が支払われた後、収容所にいた私たち全員が本当にほっとしました。収容所には、そのような場所にいなければならないという一種の恥の意識があったからです。だから私たちはそのことについては話さなかったのです。」 — シャーマン・キシカリフォルニア州リビングストンの人里離れた田舎道を下ると、牧場風の家が建っています。ポピーでいっぱいの私道で客を迎えてくれます。この家の隣には、アーモンドの木とサツマイモ畑でいっぱいの緑豊かな農地があります。この土地とその230エーカーは、100年…

この執筆者が寄稿したシリーズ
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら