ディスカバー・ニッケイ

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エミコ・ツチダ

(Emiko Tsuchida)

@emikotsuchida

エミコ・ツチダはサンフランシスコ在住のフリーランスライター兼デジタルマーケターです。混血のアジア系アメリカ人女性の表現について執筆し、トップクラスのアジア系アメリカ人女性シェフ数名にインタビューしてきました。彼女の作品は、ヴィレッジ・ヴォイス、アジア系アメリカ人メディアセンター、近日発売予定の「Beiging of America」シリーズに掲載されています。彼女は、強制収容所を体験した日系アメリカ人の体験談を集めるプロジェクト「Tessaku」の創始者でもあります。

2016年12月更新


この執筆者によるストーリー

テッサク
大山次郎 - パート 4

2020年9月27日 • エミコ・ツチダ

パート3を読む>>忠誠心アンケートの後で、空白部分を埋めるために戻って質問するとしたら、あなたは徴兵されたのですか、それとも志願したのですか? 私は徴兵されました。高校を卒業してキャンプを終えた後、シンシナティ大学に進学しました。アメリカ友人奉仕委員会が奨学金を支給してくれました。確か 200 ドルくらいだったと思います。私は姉と一緒に住んでいます。姉は独身で、シンシナティでメイドとして働いていました。姉が家を出て、私がアパートを引き継ぎました。当時独身だった弟…

テッサク
大山次郎 - パート 3

2020年9月20日 • エミコ・ツチダ

パート2を読む>>サンタアニタにはどれくらいいましたか? 8 か月くらいだったと思います。群衆に慰めを与えるために、ハワイアン シンガーとダンサーのグループがいて、親密なエンターテイメントを楽しめるステージもありました。教育を維持するためにクラスも開こうとしましたが、まったく成功しなかったと思います。その後、サンタ アニタでは、迷彩ネットの製造を開始するプログラムが進行していました。スタンドでは、迷彩ネットを作る作業員がいて、1 日に 6 ドルか 8 ドルくらい…

テッサク
大山次郎 - パート 2

2020年9月13日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>これは実は良い話です。真珠湾の話になるからです。あなたのお父様は亡くなり、お姉さんが世帯主になったようですね。真珠湾攻撃があった日のことを覚えていますか?それは姉が結婚した2年後のことでした。つまり、妹と弟と私です。2番目の姉のミニーは食料品店を経営していました。弟は当時、UCLAに通い始めていました。私は16歳くらいでした。それでパール ハーバーでは、日曜日の午後は店を閉めていました。ラジオでパール ハーバー攻撃の知らせを受け取ったのを…

テッサク
大山次郎 - パート 1

2020年9月6日 • エミコ・ツチダ

「そして私はそこに立って、周りを見回して、みんなが襲撃を心配していて、私に注目していることに気づきました。他の日本人のことも考えませんでした。悪いのは私でした。」 — 大山次郎大山次郎の長く実り多い人生は、アメリカンドリームの実現の真髄を体現しています。ロサンゼルスのボイルハイツ地区の勤勉な家庭に末っ子として生まれた彼の幼少期は、悲劇的で困難な出来事で彩られていました。彼が9歳のとき、父親は漁船での仕事の後、長い闘病生活の末に亡くなり、母親は一人で4人の子供を育てなければな…

テッサク
リチャード・ヤマシロ - パート 4

2020年6月1日 • エミコ・ツチダ

パート3を読む>>奥様とはどうやって知り合ったのですか?そうですね、私は軍隊にいたので、USOダンスパーティーに行きました。そこで彼女に会ったんです。彼女は日系アメリカ人ですか?ええ、それはまた別の話です。私は結婚したかったのですが、まだ20歳でした。それで両親に結婚の許可をくれるか尋ねたところ、両親は「ダメよ、私は若すぎるから」と言いました。それで私とガールフレンドは飛行機に乗ってリノに行き、リノで結婚しました。そして私が帰ってくると、義理の母が「仏教の教会で…

テッサク
リチャード・ヤマシロ - パート 3

2020年5月25日 • エミコ・ツチダ

パート2を読む>>それで、ちょっと話を戻します。実際にマンザナーからトゥーリー湖へ向かったとき、どうやってそこに着いたのですか?列車に乗せられたのですか?ええ、電車に乗りました。多くの人が喜んでいたと思いますが、私はあまり喜んでいませんでした。トゥーリー湖はひどい場所です。トゥーリー湖を見たことがありますか?マンザナーと比べてどうですか?トゥーリー湖は干上がった湖底だったので、ひどい場所でした。土が全くなく、小さな砂利のようでした。一方、マンザナーは砂漠の中にあ…

テッサク
リチャード・ヤマシロ - パート 2

2020年5月18日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>ご両親の名前と妹さんの名前を教えていただけますか?私の母の名前はトミコ。父の名前はエイロ。姉の名前はリリアン、ヨシコ。それはまた別の話。母が私を学校に登録したとき、それは日本語の名前だった。英語の名前は入っていなかった。そう、だから私は子供時代ずっと、山城栄一だった。学校に行って先生に出席を取ってもらうようにしていた。 MS (マイケル・セラ): それで、リチャードを拾ったのはいつですか?キャンプの後。うん、もう行きました。これはやりすぎ…

テッサク
リチャード・ヤマシロ - パート 1

2020年5月11日 • エミコ・ツチダ

「父は事業を手放さなければなりませんでした。父は一生懸命働いていたので、本当に辛かったと思います。私はずっと年をとるまで気づきませんでしたが、父にとってはそれが一番辛かったのです。父もそのことで少し苦々しい思いをしていたようです。」 — リチャード・ヤマシロリチャード・ヤマシロさんとお話をするのは素晴らしい経験です。リチャードさんは91歳ですが、まだ仕事をしており、20歳年下の人のようなエネルギーと元気さを持っています。現在の仕事バッジの反対側には、トゥーリー湖で撮影した自…

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山内静子 - パート 2

2020年2月19日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>ご主人との出会いについてお話しいただけますか?クリーブランドで知り合ったのですか?山内静子(以下SY):いいえ。彼は軍隊にいました。ナンシー・ドッド(ND):彼は442番でした。 SY: まあ、私たちは下宿屋を持っていたので、休みがあれば彼らは来て一晩泊まって、どこかへ帰っていきました。それで彼はここに来たんです。ということは、サンルイスオビスポで彼を知っていたんですね。戦争中ずっと手紙のやり取りをしていたんですか? SY: そうですが、…

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山内静子 - パート 1

2020年2月18日 • エミコ・ツチダ

「私が見たのは簡易ベッドと、干し草か何かの俵、つまり藁で、それをマットレスに詰める予定だったんです。覚えてます。私たちはただそれを受け取っただけで、仕方がなかったんです。文句を言っても仕方ないですからね。」 — 山内静子2019年の春、私はポストン基地にいた人の娘から口述歴史インタビューを依頼された。それはごく普通の依頼だったが、一つだけ驚くべき事実があった。私がインタビューすることになった女性は101歳だったのだ。真珠湾攻撃当時、山内静子さん(当時は稲尾さん)は24歳で、…

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