ディスカバー・ニッケイ

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郷 崇倫

(ごう・たかみち)

@myvisittomanzanar

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  


この執筆者によるストーリー

『羅府ぎぎゅう音頭』の著者、佐藤健一先生を訪ねて - その2

2012年3月20日 • 郷 崇倫

その1>>初めての佐藤先生とのインタビューが終わったあと、私は羅府に足を運びその内容を藤田さんに報告しました。藤田さんは、先生とのつながりをつくることが出来たことをとても喜び、LTRの撮影もかねディレクターの陳さんを伴って日本を訪問することを決めました。 藤田さんと陳さんは11月の下旬に日本を訪問しました。ふたりの第一の目的はもちろん、先生に会うことでした。私は急いで4日間のスケジュールを組み、あらためて先生から話を聞くことになりました。今回のわたしの役割は日程の調整や現…

『羅府ぎぎゅう音頭』の著者、佐藤健一先生を訪ねて - その1

2012年3月13日 • 郷 崇倫

一昨年秋より、わたしはリトル・トーキョー・レポーター(LTR)という、日系一世である藤井整の生涯を描いたドキュメンタリー映画の制作をお手伝いしています。(その経緯については『「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん』を参照ください。)今回はこの映画制作における「要」ともなった資料である『羅府ぎぎゅう音頭―排日土地法を葬った藤井整の記録』(1983年)を書いた佐藤健一先生を訪問したときのお話です。 『羅府ぎぎゅう音頭』は、藤井整の生涯を描いた作品であると同時に、彼を知る…

「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん その2

2012年1月3日 • 郷 崇倫

その1>>藤田さんの「闘い」藤田さんが、藤井整氏の生涯に強い興味を持つようになったきっかけのひとつは、彼女自身が、日系史のみならず、アジア太平洋系アメリカ人の歴史において、「重要な役割」を果たしたからです。そのような過程をへて彼女は、彼との「つながり」を意識するようになったとのことです。 彼女は藤井氏と同じく、南加大学を卒業しました。薬学博士(Doctor of Pharmacy)の学位を取得したのちに、加州大学付属ハーバー病院(UCLA Harbor Hospital)…

「正義の闘い」を映像に―藤田キャロル文子さん その1

2011年12月27日 • 郷 崇倫

「藤井整氏のドキュメンタリーをつくろうと思っているのだけど、なにかアドバイスしてくれないでしょうか」 昨年の秋のことでした。わたしは半年ぶりに、藤田キャロル文子さんと会ったとき、彼女からそのように言われ、とても驚いてしまいました。 現在、彼女は「リトル・トーキョー・リポーター(Little Tokyo Reporter)」(以下「LTR」とします)という、日系一世である藤井整の生涯を描いた映画で、自らがエグゼキュティヴ・プロデューサーとして、制作の陣頭指揮をとっていると…

ある日系人との出会いから ―その2/2

2011年8月16日 • 郷 崇倫

その1>>台湾系日本人として台湾にルーツをもつ日本人であるわたしは、良くも悪くも、単一民族という考え方が浸透している日本の社会においては、異質な存在です。 当時は、わたしの周囲において、エスニシティの多様性にたいして寛容の態度がとれる人は、皆無でした。わたし自身、みずからの異質性を常に警戒しなければなりませんでした。出来るだけそのような異質性を表に出さないための最善の努力が、常に要求されていたのです。小学生や中学生、さらに高校生にとっては、エスニシティのことも含めて、異質…

ある日系人との出会いから ―その1/2

2011年8月9日 • 郷 崇倫

日本人にとって日系人は、遠くて近い存在なのでしょうか?確かに、日本人と日系人の関係は、日本がはじめた日米戦争によって、亀裂ができてしまったとされています。そのため、多くの日本人にとって、日系人について、その多くを理解するための機会が限られています。しかしながら、わたしは、これまで出会った多くの日系人との交流や、親しくしてくださるFさんやHさんのことを考えると、どうやら、日本人と日系人の関係は、お互いをよく理解しあう人々によって、しっかりと保たれてきたと思うのです。 日本語…

マンザナーへ、そしてマンザナーから
第6回 (後編) 東カリフォルニア博物館へ

2011年4月28日 • 郷 崇倫

前編>>東カリフォルニア博物館の日系史にかんする展示において、特筆すべき点は、博物館のなかにおいて一番に訪問者の目をひく、バラックの内部を再現した展示です。 このバラックの床には、ところどころに、ブリキ缶の側面を平べったくしたものが、床に打ちつけられていました。これらは、当時のバラックが、粗悪な材木と、タールを塗りつけた紙だけで造られていた為に、すきま風や、すきま風とともに入ってくる砂を、防ぐためのものでした。 今でこそ、全米日系人博物館をはじめ、各地の博物館などにおいて、…

マンザナーへ、そしてマンザナーから
第6回 (前編) 東カリフォルニア博物館へ

2011年4月21日 • 郷 崇倫

マンザナーでの実習は、3日目を迎えました。私はキャリーさんと一緒に、東カリフォルニア博物館(Eastern California Museum)を訪れました。 東カリフォルニア博物館は、マンザナーをふくめた、インヨー郡(Inyo County)の歴史に焦点をあてた博物館です。マンザナーからは、車で約15分ほど北上したところにあって、インディペンデンスの街の中心にあります。今回、マンザナー以外に、東カリフォルニア博物館に足を運んだのは、私のマンザナーでの実習における、プロジェ…

マンザナーへ、そしてマンザナーから
第5回 マンザナー二日目

2010年11月22日 • 郷 崇倫

マンザナーにきて二日目、わたしは寒くて朝早くに目が覚めてしまいました。時計を見るとまだ6時でした。寒くて目が覚めてしまった経験は、実に数年ぶりでした。 わたしは熱いシャワーを浴びたあと、果物の缶詰を2個ほど開けて、急いで朝食を済ませました。ガスヒーターを点けましたが、部屋は一向に暖まりません。さらに、わたしは外を見てびっくりしてしまいました。なんと、霜が車全体を覆っていたのです。わたしは急いでお湯を沸かし、車全体を覆っている霜をとかし始めました。まもなくして霜をとることは…

ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その5

2010年11月15日 • 郷 崇倫

>>その4父親として、日系社会の一員として1944年に結婚したハワードさんとアンさんには、1948年に長女のジョイスさん、1952年に次女のスーザンさんが生まれました。ハワードさんは、公の場では多くの歯科医師にとって「素晴らしき父親」でしたが、私生活においても二児の素晴らしき父親でした。ジョイスさんは残念なことに1990年にがんで他界しましたが、スーザンさんは現在も、日本でいうところの特別支援学校の先生をしています。 さらには、ハワードさんは日系社会のために活動をする人でも…

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