ディスカバー・ニッケイ

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フィルバート・オノ

(Philbert Ono)


フィルバート・オノはハワイで日本人の両親のもとに生まれ、三世世代として育ちました。現在は東京を拠点とし、流暢な日本語を話す彼は、日本旅行作家、写真家、翻訳家として、日本への理解を深める活動に取り組んでいます。ロバート・ウォーカー・アーウィンの伊香保別荘の英語パンフレットを執筆しました。また、彼が作成した日本にある日系博物館のリストもご覧ください。

2020年10月更新


この執筆者によるストーリー

ロバート・ウォーカー・アーウィン(1844–1925)
第5部: アーウィンに会う

2020年11月8日 • フィルバート・オノ

パート4を読む>>ロバート・ウォーカー・アーウィンに関する展示品、遺物、文書などを見ることができる場所を紹介します。 * * * * *群馬県渋川市ハワイアン牧師館伊香保別荘伊香保は、1,300年以上前に開かれた、榛名山の涼しい斜面にある有名な温泉街です。19世紀までには、皇族を含む多くの要人や著名人が訪れる人気の保養地となり、1945年まで皇族の別荘が置かれていました。竹久夢明寺や夏目漱石などの有名な芸術家や小説家も伊香保の常連でした。現在、伊香保は誰もがくつ…

ロバート・ウォーカー・アーウィン(1844–1925)
第4部:日本における第二次世界大戦と孫たち

2020年11月1日 • フィルバート・オノ

パート3を読む>>人種差別や米国への移住を求める政府の圧力にもかかわらず、アーウィンの子供や孫たちは戦時中、日本人として日本に留まりました。孫たちは成人すると、最終的に米国に移住しました。 * * * * *戦争時代ロバート・ウォーカー・アーウィンは、1925年1月5日、東京・麹町の自宅で脳卒中(死亡診断書には「脳卒中」と記されている)で亡くなった。享年81歳。妻のイキは1940年8月17日、87歳で亡くなった。アーウィンとイキにとって、第二次世界大戦を回避でき…

ロバート・ウォーカー・アーウィン(1844–1925)
パート3: 混血児

2020年10月25日 • フィルバート・オノ

パート2を読む>>アーウィンの子供たちは日本では混血でしたが、当時としては非常に珍しいことでした。彼らは日本では完全に日本人であるとは感じず、アメリカでは完全にアメリカ人であるとは感じませんでした。彼らはアイデンティティの問題と人種的偏見の両方に直面しました。それでも、ほとんどの子供たちは日本に永住することを選択しました。 * * * * *国際結婚と混血児アーウィンとイキは多くの特権と富を得たにもかかわらず、私生活と結婚生活には浮き沈みが多かった。イキは夫の飲…

ロバート・ウォーカー・アーウィン(1844–1925)
第2部:ハワイへのカンヤク・イミン移民の父

2020年10月18日 • フィルバート・オノ

パート 1 を読む >>アーウィンと彼の親友で日本の外務大臣だった井上馨の交渉により成功裏に成立した官約移民制度は、1885年からハワイへの日本人の大量移民を開始した政府契約移民制度であった。 * * * * *カンヤクイミン移民ハワイの歴史におけるアーウィンの地位は、1880年に友人のハーラン・P・リリブリッジがハワイ王国の日本総領事を辞任し、アーウィンを後任に推薦したことに始まる。ハワイの臨時日本総領事としてのアーウィンの仕事は、1881年3月4日から22日…

ロバート・ウォーカー・アーウィン(1844–1925)
第1部:ハワイ駐日公使

2020年10月11日 • フィルバート・オノ

※この記事の日本人名は、姓が名の前に来る日本の慣習に従っています。 1866 年、日本史上最も激動の時代であった横浜にアーウィンが到着。間もなく、私生活と仕事で最も重要な 2 人の日本人と出会う。1 人は妻のイキで、家族の反対と法的な障害を乗り越えて 10 年以上を経て、ようやく法的に結婚した。アーウィンとイキは、アメリカ人と日本人が結婚した世界初の人物となった。 * * * * * 1860 年 6 月、ペンシルベニア州フィラデルフィアで、16 歳のロバート ウォーカー…

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