>>前編そうこうするうちに、日米戦争が1941年に始まりました。その戦争がラ・コルメナの我々にどういう影響があったかというと、パラグアイは日本に宣 戦布告までは行かなかったが、国交を断絶した。その為、日本語学校の校長先生や日本から派遣されていた診療所の先生、管理事務所の高級職員等が、当時中立 国だったスペイン大使館を通しどんどん帰って行った。従って生活が苦しかった移住地ですが、更に陸の孤島になってしまい、誰に頼ろうとも頼れない、親から 追い出された乳飲み子みたいな状態になってしまいました。
また、何故かパラグアイが、終戦前に日本に宣戦布告して我々は敵国人になり、いっぺんにラ・コルメナ管理事務所の表玄関に捕虜収容所の看板が掲げら れ、干渉官が乗り込んできました。日本語学校の建物と教材は全部没収、日本人青年団も自治体など全部の団体組織が解体された。行動も規制される捕虜収容所 なので、外務省の許可無しに3人以上が集まると罰則だし、祝いや酒を飲むのもダメ。
入植2年目に9家族が脱耕したと言いましたが、そのあおりや植民者大会でまた脱耕が再燃し、われ先にと主にアルゼンチンに転住して行った。ところが この宣戦布告で捕虜になった為、逃げることも出来ず、干渉の中、細々と生活していました。当時、拓務省の主治医として診療所に派遣されていた田中秀雄ドク ターだけがラジオを持つことを許され、日米戦争開始時…