三井 波夫

(みつい・なみお)

長野県生まれ。1938年16才で親に連れられ、パラグアイで初めての日本人移住地ラ・コルメナに入植する。 第2次大戦後、アルゼ ンチンやブラジルへの離脱離農者が続くラ・コルメナ移住地で、仲間とともにブドウ、スモモ、桃、マンゴ、ポンカンなどの果物の導入につとめ、その後、ラ・ コルメナはパラグアイの「果物の里」と呼ばれるまでに発展した。その間、地区の農業協同組合理事長、文化協会会長などの役職、その後、全パラグアイ老人ク ラブ連合会会長などの要職をつとめ、現在は悠々自適の生活を送っている。

(2009年5月 更新)

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三井波夫氏講演「コルメナの移住について」 (後編)

>>前編

そうこうするうちに、日米戦争が1941年に始まりました。その戦争がラ・コルメナの我々にどういう影響があったかというと、パラグアイは日本に宣 戦布告までは行かなかったが、国交を断絶した。その為、日本語学校の校長先生や日本から派遣されていた診療所の先生、管理事務所の高級職員等が、当時中立 国だったスペイン大使館を通しどんどん帰って行った。従って生活が苦しかった移住地ですが、更に陸の孤島になってしまい、誰に頼ろうとも頼れない、親から 追い出された乳飲み子みたいな状態になってしまいました。

また、何故かパラグアイが、終戦前に日本に宣戦布告して我々は敵国人になり、いっぺんにラ・コルメナ管理事務所の表玄関に捕虜収容所の看板が掲げら れ、干渉官が乗り込んできました ...

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三井波夫氏講演 「コルメナの移住について」 (前編)

パラグアイで初めて、ラ・コルメナに日本人移住地ができたのは、ご存知かもしれませんが、当時日本からの移住者を一番多く受け入れていたブラジル で、「日本人は働きすぎて、山の木を全部切って綿を植えて、儲けたら日本に帰ってしまう、それじゃブラジルは砂漠になってしまうので問題だ」と言われてい ました。そこで、日本人移住だけ制限するわけにもいかないので、ヨーロッパからの移住者も含めて、1934年頃、外国移民制限法というのを国会で決定しま した。それは、日本人ならそれまでの移住者100人に対し2人まで、新規移住を認めるというものでした。

当時、日本は昭和10年頃で農村も非常に貧しく、私の生まれた長野県も、テレビドラマ ...

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