戦前編 >>
シアトルのマイノリティ文化を象徴する場として
シアトル・ダウンタウン南に位置するインターナショナル・ディストリクト。その一角に残る日本町。戦前の最盛期には8,500人程の日系移民がそこに暮らし、ビジネスを営んでいた。しかし、太平洋戦争開戦後の大統領令により、すべての日系住民は強制収容所へ送還された。戦前の日本町を紹介した前回に続き、ここでは戦中から戦後、そして現在に至るまでの日本町の変貌を追う。
日系人強制収容と、残された日本町
2015年12月、ワシントンDCで行われた米国帰化移民らの会合で、オバマ前大統領は「日系移民を強制収容所に監禁したのは米国の最も暗い歴史の一つだ」と挨拶した。75年前の同月、フランクリン・ルーズベルト元大統領による大統領令9066号が発令され、12万人以上のアメリカ市民を含む日系人が「敵性外国人」とみなされ強制収容所へ送還された。シアトル日本町住民の多くは、アイダホ州南部のミニドカ収容所へ送られた。それまでに築いてきた商売、土地、財産、家具、思い出の品など、スーツケースに入る必要最低限の荷物以外の全てを置き去りにしての強制退去だ。数日間のうちに、シアトルの日本町はすっかり空っぽになった。
一方で、戦時中のシアトルはさらなる成長を遂げる。1916年にシアトルで誕生したボーイング社が、軍用機の需要で急成長したのだ。シアトル市の人口…