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スタン・カーク

(Stan Kirk)

@StanKirk

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)


この執筆者によるストーリー

日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ
第5部:カナダでの幼少期と日本への強制送還

2018年12月24日 • スタン・カーク

伊吹幹雄は、カナダに帰国するつもりだったが、結局日本に残った日系亡命者の好例である。彼は、1940年1月1日にバンクーバーで、伊吹末次郎と光江の長男として生まれた。前述のように、彼には妹の和子(1942年7月9日、スローカンシティ生まれ)と弟の俊明(1944年11月3日、スローカンシティ生まれ)がいる。家族がバンクーバーから追われたとき、彼自身はまだ2歳6か月だったので、それ以前のバンクーバーでの生活の記憶はほとんどなく、ただ、走る電車を見て、近づきすぎないようにと母親が心…

日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ
第4部:伊吹末次郎 - 亡命と日本での生活

2018年12月17日 • スタン・カーク

パート3を読む>>強制収容後の日本への強制送還スエジロウとミツエは、カナダ東部への移住よりも日本への強制送還に同意した日系人のうちの一人だった。ミキオは、最も切実な理由は東京にいるミツエの両親の安否を心配していたことだったと考えている。前述のように、戦時中、日系カナダ人と日本にいる家族との連絡は途絶えており、連絡を回復し、家族の生存と安否を確認したいという切実な思いが、強制送還という選択を受け入れる最も強い動機の一つとなった。ミキオによると、父親には日本に帰国す…

日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ
第3部:伊吹末次郎 - バンクーバーでの戦前の生活、移住、そして強制収容

2018年12月10日 • スタン・カーク

カナダ東部への移住ではなく、幼い家族とともに日本への強制送還を選んだ日系人の一人が伊吹末次郎です。彼はすでに亡くなっているので、このプロフィールは息子の幹夫の回想や写真、個人的な手紙、そして末次郎の生涯に関するさまざまな公文書に大きく依存しています。幸いなことに、彼はそのような資料をかなり多く残しており、幹夫によって保管されています。彼のルーツとカナダへの移住末次郎は1908年4月28日、滋賀県彦根市近郊の三津屋という小さな農村に、4人兄弟4姉妹の4男として生まれました。1…

日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ
第2部:歴史的背景 - 日本の生活と生活環境

2018年12月3日 • スタン・カーク

パート 1 を読む >>日本への旅と彼らを待ち受けていた状況カナダが強制送還政策を終了したとき、約4000人の日系人がすでに日本に送られていた。彼らの34%は日本国籍(平均年齢51.6歳)、15%はカナダに帰化した市民(平均年齢56.5歳)、51%はカナダ生まれの市民(平均年齢16.7歳)であった(ティモンズ、DJ 「1946年のエヴァンジェリン:占領下の日本へのカナダから日系人の亡命」、修士論文、ビクトリア大学、2011年、p.70)。船上での彼らの宿泊、食事…

日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ
パート 1: 歴史的背景 - 国外追放

2018年11月26日 • スタン・カーク

投獄された日系カナダ人のジレンマ:カナダ東部への移住か日本への強制送還か第二次世界大戦が終わりに近づくと、カナダ政府は、ブリティッシュコロンビア州(BC)沿岸から強制的に移住させ、家や財産を取り上げ、主に州内陸部のゴーストタウンに収容した日系カナダ人をどうするか決める必要があった。彼らがBC沿岸に戻るのを阻止しようとする強い圧力があった。その結果、家や財産に戻ることを許されたアメリカ人とは対照的に、日系カナダ人はそうすることを禁じられ、「忠誠テスト」の形で、非常に望ましくな…

日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー
第7回 バジルと聖十字聖公会

2018年6月5日 • スタン・カーク

第6回を読む >> 前述したように、バジルの両親はともに聖公会聖十字教会の熱心な信者で、彼も子供の頃、収容所に移動させられる前は聖公会の日曜学校や幼稚園に通っていた。日本からカナダに戻ってきてからも、おばや祖母とバーノンにある聖公会に通い、1954年にノース・バンクーバー1に引っ越したときは、最寄りの聖公会セント・ジョン・エヴァンジェリストに通った。 戦後、西海岸地域に戻ったころ、日系カナダ人聖公会信者は教会で祈ること許されなかった。しかし、バジルは差別を感じたことはな…

日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー
第6回 カナダでの生活

2018年5月29日 • スタン・カーク

第5回を読む >> バジルは1949年からバンクーバーに引っ越す1954年まで、祖母やおばたちとバーノンで過ごした。「収容所時代、彼らは自主運営地1の一つで、ブリティッシュコロンビア州のリロオエットの郊外にあるメント鉱山にいました。私のもう一人のおばは、祖母と祖父と一緒にリロオエット東部に住んでいました。 祖父は1944年に老衰のためリロオエットでなくなりました。戦争が終わった時、おば達の家族と祖母はB C州のバーノンに移りました。戦前そこにはかなりたくさんの日系カナダ人…

日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー
第5回 日本への送還とカナダへの帰還

2018年5月22日 • スタン・カーク

第4回を読む >> 日本への送還 家族が日本へ送還されたとき、バジルは9歳だった。彼の両親がなぜカナダ東部への移住ではなく日本へ行くことを選んだのか、バジルがその理由を聞かされたことは一度もない。日本に行くことを選ぶその主な理由は、日本にいる親戚の行く末を案じてだが、バジルには両親が特に心配していた記憶はない。しかしずっと後になって、母がその決断をしたんだと教えてくれた。彼は、「母は、カナダ政府の我々に対する扱いに心底嫌気がさしていたから日本に行くことを選んだのだと思い…

日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー
第4回 退去と収容

2018年5月15日 • スタン・カーク

第3回を読む >> バジルがちょうど幼稚園を卒業した頃、退去と収容が始まった。当初、父親は健康で丈夫な若者たちとともに道路建設現場に送られ、バジルと母親はバンクーバーからブリティッシュコロンビア州東部、スローカン・シティの収容所に直接送られた。バジルは、収容所に行くために汽車に乗ったときのことを、はっきりと覚えている。汽車に乗るのは初めてだったので、彼はわくわくしていたという。でもなぜ汽車に乗るのか、どこへ行こうとしているのかは全くわかっていなかった。 スローカン・シテ…

日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフヒストリー
第3回 バジル・イズミの誕生と家族背景

2018年5月8日 • スタン・カーク

第2回を読む >> バジル・タダシ・イズミは1937年4月25日にバンクーバーの総合病院で生まれた。彼はH・M・シモムラ医師の手によって取り上げられた。シモムラ医師はのちに、ヘスティング・パークやタシメ収容所で厳しい状況下に置かれていた数多くの患者の治療をしたことで日系カナダ人の信頼を得た人物である。バジルには二人の妹がいた。二人とも強制収容所時代に生まれた。上の妹メグミ・グレイスは1944年4月22日にニュー・デンバー病院で生まれ、下の妹エミコは1945年8月6日に…

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