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アケミ・キクムラ・ヤノ

(Akemi Kikumura Yano)


アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新


この執筆者によるストーリー

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その15

2011年4月11日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その14一世の家庭生活: 結婚浦上栄二は年若い妻、絹代のサンフランシスコ到着を今か今かと待ちわびていた。1903年に渡米してから既に12年の歳月が流れ、この時、浦上は34歳になっていた。 「私も独身生活もあきあき為ましたです。」と彼は絹代に宛てて書いた。「終日働ひて帰ってきた所で待つ人も無くさみしひものです。」さらに率直に彼は訴えている。「長い夜の独りねもずいぶん長ひ間ですから何に付けても不辧此の上も無いです。今回は何お捨て置ひても貴女の呼び寄せの全力おそそぎ一日も早…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その14

2011年4月4日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その13安井益男と安井兄弟商店「スクールボーイ」の1人、安井益男はオレゴン州フッドリバーの日本人社会の発展に大きな貢献をした人物である。1日本で英語を学んだ後、安井は1903年に学校に行くためオレゴンへ来た。彼の父と二人の兄はすでに渡米していた。彼はポートランドの弁護士の家で料理人の手伝い兼スクールボーイとして働き、英語も流暢に操れるようになった。 1905年、益男はフッドリバーを訪れ、その渓谷の自然美に惹かれた。同時に彼は近辺の製材所、材木切り出し場、果樹園などで働…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その13

2011年3月28日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その12 アメリカ大陸における一世商業の発展 一世社会の基礎は、1910年までに大体出来上がっていた。 そこに生まれた一世ビジネスの大部分は、大抵1,000ドル以下の投資で始まり、投資した本人によって経営された。初期の事業の多くは頼母子講や他の相互援助、保護の手段に頼っていた。 1909年度連邦議会移民委員会の報告によれば、アメリカ西部では3,000から3,500の商店が日本人経営であった。その大部分はサンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、サクラメントにあ…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その12

2011年3月21日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その11外国人土地法日本人移民を農業から排除するため、カリフォルニア州は1913年に最初の外国人土地法(俗に排日土地法)を制定した。この法律は、「帰化不能外国人」と彼らが株主の大部分を占める法人による土地購入、または他の「帰化不能外国人」への売却や遺贈を禁止し、借地権も三年以内に制限するものであった。 しかし、多数の日本人農民はこの差別的法律の抜け穴を見つけて、なんとか農業を続けることに成功した。カリフォルニア州コーテスの一世は、白人弁護士の助言に基づき、二世の名前で…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その11

2011年3月14日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その10 砂漠から農地                  土になる覚悟を決めて腰を据え1 日本人移民は、太平洋岸からロッキー山脈に至る各州で農業に従事した。1909年の時点で、3万8,000人もの一世が農場労働者として働き、彼らにとって最大の雇用口であった。特にその内95パーセントの労働者はカリフォル…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その10

2011年3月7日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その9 労務契約請負人 ハワイでは、労働者は雇い主と直接耕地で接触する機会があったが、アメリカ本土では労働者が雇い主を知ることなく働く事も多かった。一世労働者は、労務契約請負人を通じて白人雇用主から仕事を貰うのが普通だった。労務契約請負人は、労働者から手数料を取り、他にも生活必需品や様々なサービスを提供して大きな利益を上げていた。 鉄道会社、製材所、農場、鉱山、魚缶詰工場などでの仕事を斡旋する日本人は20人以上いたと伝えられている。その中でも、日米勧業会社…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その9

2011年2月28日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その8排日熱の高まり渡米した一世達は、習慣も方言も異なるさまざまな県から来ていたが、アメリカ人から見れば、日本人は皆、同国の同一人種でしかなかった。アメリカ上陸と同時に、日本人は人種偏見、差別、隔離と様々な困難に直面した。 三森仁甫がサンフランシスコに上陸したのは1905年のことだった。日本人移民たちが下船するとき、15人から20人の白人少年グループが待ち構えていた。彼らは日本人移民に暴力を振るうため、定期的に港に来ていたのである。「ジャップがきたぞ!やっちまえ!」少…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その8

2011年2月21日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その7アメリカ本土への旅: 出稼ぎから定住へ日本人移民の多くはハワイにとどまりそこを安住の地としたが、一方でハワイより倍の賃金を貰えるアメリカ本土への渡航を考える者も多くいた。1890年から1900年の間、日本人はシアトルやサンフランシスコに大挙して押し寄せたが、時を同じくして、ニューヨークのエリス島にはヨーロッパの南部や東部から、沢山の移民が渡って来ていた。 当時は、世界中の人々がアメリカへアメリカへと向かっていた時期であった。 国内工業が発展するアメリカには仕事が…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その7

2011年2月14日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その6商業及び他事業への進出最初に農園に登場した日本人の商売は銭湯だった。農園経営者側は建物、燃料、水を提供し、銭湯経営者は労働者から月々入浴料を撤収した。また各キャンプには大ゴックと呼ばれるコック長、又はコック夫婦がおり、月極めの手数料で、20~30名の労働者の食事を用意していた。ワイパフのある一世労働者によれば、献立はうどんやたくあんのようなごく簡単なものが主流で、あまり美味しいものではなかったそうである。彼らは、少ない給料から6~7ドルを食事代と洗濯代に立てていた…

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その6

2011年2月7日 • アケミ・キクムラ・ヤノ

>>その51920年ストライキ1909年日本人大ストライキの後の賃上げ以降、労働者の賃金は同水準に抑えられたままであったが、その一方で生活費は相変わらず上昇し続けた。第一次世界大戦が終結するまでに、生活費は実に45パーセントも上がっていた。1労働者たちは耕地経営者組合に対し、賃上げ、子弟のための保育所設置、ボーナス制度改革などの要求を提出したがすぐに拒否された。1919年頃には悪化する生活のなか、マウイ、カウアイ、ハワイ、オアフの島々に次々と労働組合が組織され、結局ホノルル…

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