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川井 龍介

(かわい・りゅうすけ)

@ryusukekawai

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)


この執筆者によるストーリー

テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その1/4

2013年12月13日 • 川井 龍介

テキサスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。カウボーイ、バーベキュー、NASA(米航空宇宙局)・・・。ヒューストンなど先端産業で知られる都市もあるが、どちらかといえば、野趣あふれる、昔ながらのアメリカといったイメージが強いのではないか。 メキシコ湾に面し、全米でアラスカに次いで面積の広いこの州(日本の約1.8倍)は、独立心の強い風土があり、テキサスのアメリカ人はAmerican(アメリカ人)ではなくTexan(テキサス人)だという言葉も聞かれるくらいだ。 そのいかに…

マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ — その3

2013年11月22日 • 川井 龍介

その2を読む>> フィッシャーに重用された後に独立 約4年間働いた後、重三氏は独立して兄の長太郎氏とマイアミビーチ市内で園芸・造園のための「Miami Beach Nurseries」という“店”を開いた。「Nurseries」というのは、植物を育てて管理しそれを販売するという業種だ。まもなくして長太郎氏は日本に帰国し重三氏が事業を切り盛りした。 「日本に帰ることがあったとき、フィッシャー自身が重三のために紹介状を書いてくれたんです。いまで…

マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ — その2

2013年11月15日 • 川井 龍介

その1を読む >> 実業家、カール・フィッシャーの下で 遅れたフロンティアであるフロリダがアメリカ合衆国の1州に加わったのが1845年。アメリカインディアンが暮らす一部を除いて、この州の南部はほぼ未開で、無人島だったマイアミビーチもこのころから農園の開発が行われた。 1896年に北から延びた鉄道がマイアミまで敷かれると、避寒地として人気を集めたこの地にはホテルが立ち並び、マイアミビーチでも不動産の開発が始まる。この事業に乗り出したなかで最も有名な人物がカール・フィッシャ…

マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ — その1

2013年11月8日 • 川井 龍介

毎朝テレビの天気予報では、江ノ島と湘南海岸の様子がよく映し出される。海面に半身を出したマッコウクジラのようにも見える島とその周辺のビーチは、首都圏の海沿いの観光地としても知名度が高いので、便利に使われるのだろう。 いまは、海水浴客などでにぎわうこの観光スポットは、神奈川県の藤沢市に含まれる。両隣の鎌倉、茅ヶ崎の2市などと併せてこのあたりの太平洋岸一帯の海岸は湘南海岸と呼ばれるが、そのほぼ中央にシンボル的に浮かんでいるのが江ノ島である。 江ノ島(藤沢)とマイアミビーチ …

「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その2

2013年9月27日 • 川井 龍介

その1を読む >> 戦争による危機を超えて 最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。 コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店など…

「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その1

2013年9月20日 • 川井 龍介

世界の各地で暮らす日本人をリポートする民報のテレビドキュメンタリー番組が面白い。こんなところでわが同胞はこんなふうに生きているのかと、そのバイタリティーに感心すると同時に、まさに「人間いたるところ青山あり」という思いにいたる。 これは現代のお話だが、まだ世の中の情報や交通網が整っていなかった100年以上前に、すでに多くの日本人が、言葉と文化の壁を越えて世界に飛び出していった。その無数の足跡のなかから、アメリカでのいくつかのユニークな例をご紹介したい。 今回は、カリフォル…

カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その3

2013年8月16日 • 川井 龍介

その2を読む >>日系人たちにはよく知られた墓だった「おけいの墓」の前に話を戻そう。周囲は草木ばかりで、まさに野の中にひっそりと作られた墓碑のあるところは、木陰になってこの日は色鮮やかな花が手向けられていた。 当然のことながら、背あぶり山の墓碑と同じ「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years」、「おけい之墓」、「日本皇国明治四年 月 日没す」、「行年十九才」と、表裏に刻まれている。月日は記されていない。 強い陽射しの下、午前中から…

カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その2

2013年8月9日 • 川井 龍介

その1を読む >>プロシア人に率いられて太平洋を渡る会津が官軍に攻め入られ鶴ヶ城が陥落したのが1868年秋、この翌年の春までに、会津を出てカリフォルニアにわたった一団があった。 当時、会津藩にオランダ国籍のプロシア人でヘンリー・シュネルなる人物がいた。武器商人で、会津藩と米澤藩の軍事顧問であり、かつ奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀でもあった平松武兵衛という日本名をもつこの男が、会津から二十数人を率いて、カリフォルニアで入植事業を企てたのだ。 彼の妻は日本人(会津藩士または…

カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その1

2013年8月2日 • 川井 龍介

幕末から明治にかけての会津藩をめぐる物語には、どこか同情を誘うところがあり、歴史好きのなかにも会津ファンは多いという。戊辰戦争で官軍(会津では西軍と呼ぶ)につぶされ、極寒の下北半島に斗南藩として減封され辛苦を味わった会津。 「いまも会津の人々には当時のわだかまりがあって、城下町は独特の雰囲気を醸し出しているのだろうか」 などと勝手に思い込みながら5月の連休のあと会津若松を訪れてみると、それはこちらの過剰な反応で、まちはNHKの大河ドラマ「八重の桜」の人気にあやかり、…

国力が弱まった今こそ情報発信力を高めよ:日系社会との連携が1つのポイント - その2

2013年1月10日 • 川井 龍介

その1を読む>>アニメ、ドラマは健闘しているが・・・日本からの発信力が高まっている例としては、アニメやドラマなどのテレビ放送を挙げる。日本のテレビ番組の輸出額は2010年度62.5億円で、内容別に見ると、最も多いのはアニメ(47%)で、次いでバラエティー、ドラマ、スポーツなどとなっている。 輸出先は、アジアが50%で、ついで北米(25%)、ヨーロッパ(20%)となっている。日本におけるテレビ番組の輸出入バランス(時間)は、「輸入:輸出」の割合が、1980~81年は「1:2…

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