廣瀬 公二

(ひろせ・こうじ)

1947年、京都府亀岡市に生まれる。14歳の時に大病を患い9ヶ月間病床につくが、病床の後、絵を描きたい一心で独学で絵を描き始める。16歳の時に洋画家の芝田米三氏にデッサンを学び、その後アメリカの現代美術に出合い、日本の洋画の世界から、国際的な現代美術の世界、純粋美術の世界へ移行する。20歳の時には、「ギャラリー16」にて初の個展を実現。しかし、その後13年間制作を中断する。

現在は、メキシコ人の友人を頼りにメキシコを訪れたのがきっかけでメキシコに住む。在住歴27年間。制作活動を続けている。

(2011年3月 更新)

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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その4/9

>>その3

1936年、32歳の時、イサムはメキシコシティーのアベラルト・ロドリゲス市場の壁画レリーフ(メキシコの歴史)を制作するため、メキシコで8ヶ月過ごすことになる。・・・・・壁画は、今も市場の2階の踊り場に上がると窓から逆光が差し込む薄暗い空間にひっそりと当時のまま存在し、あたかもイサムとフリーダがここに居合わせるかのように時を越えて静かに作品が語りかけて来る。壁画レリーフは、当時のイサムの思想を表現したもので、壁から大胆に突起したレリーフに沈んだ色調で彩色されている。・・・・・

ディエゴ・リベラから暖かい歓迎を受け、妻のフリーダを紹介される。マチョの象徴のようなディエゴの傲慢なフリーダへの態度に、イサムは腹立たしさを覚えていた。自ずと哀れみと共にフリーダに心が傾いて行った。フリーダはイサムに会うためロドリゲス市場の現場にしばしば訪れるうちに二人の密会の場所となった。

二人を結び付ける要素は多分にあった。それは彼らたちの生い立ちに起因する。二人の両親が国際血縁による誕生であること。フリーダは ...

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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その3/9

>>その2

華やかなパリで恋に浮かれ、師と仰ぐブランクーシ一のもとで助手になるという願いも叶い、多くを学んだ。1年間だけのグッゲンハイム奨学金は、それ以上の延長は許されず、イサムは、1928年、やむなく、パリからニューヨークに戻った。翌年の1929年、最初の個展を開催する。しかし、出品した抽象彫刻は、まったくと言っていいほど評価が得られなかった。

一方、生活のために請け負った具象の頭部彫刻は絶賛された。それらを売った金で1930年から1931年にかけてパリを経由して、ベルリン、モスクワを経て、シベリア横断鉄道で北京へ、斎白石のもとで水墨画を学び、もちろん、最終地は日本であった。東京では ...

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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その2/9

>>その1

1918年、母レオニーは、インディアナ州、ローリング・ブレーリーの公立中学校、インタラーケン・スクールに入学さす為に13歳のイサムを単身でアメリカに送った。まだ中学生だったイサムは、母レオニーに対してある疑念を抱いたに違いない。イサムは深い孤独感を味わいながら過ごすことになる。そして、両親の知人でもあり、後見人だったエドワード・ラムリー博士は、彼をスウェーデンボルグ派の聖職者サミュエル・マック博士の家に下宿させます。そこで、イサムはスウェーデンボルグに心酔していたウイリアム・ブレイクの詩に出会う、両親が文学者であった事もあり、周りには両親の知人などがいた環境もあった。

1919年、インタラーケンの創立者であったエドワード・ラムリー博士の知遇を得て ...

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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その1/9

ノグチ・イサムを語る前に、イサムの父、米次郎について少し語らなければならない。それは、イサムの人生の中で重大な原点でもあります。

父、米次郎は、1875年、愛知県津島町に生まれ、読書好きだった少年は、8、9歳で英語を学び、15歳で上京、慶応義塾に入学するも中退する。16歳までに知人を通じて米国の情報を得ていた。福沢諭吉が「人生は一六勝負のようなものだ」という文の言葉に、1893年、渡米を決意する。サンフランシスコに到着した米次郎には、多くの苦難が待っていた。

幸運にも求人広告を見て、1986年 ...

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