ディスカバー・ニッケイ

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廣瀬 公二

(ひろせ・こうじ)


1947年、京都府亀岡市に生まれる。14歳の時に大病を患い9ヶ月間病床につくが、病床の後、絵を描きたい一心で独学で絵を描き始める。16歳の時に洋画家の芝田米三氏にデッサンを学び、その後アメリカの現代美術に出合い、日本の洋画の世界から、国際的な現代美術の世界、純粋美術の世界へ移行する。20歳の時には、「ギャラリー16」にて初の個展を実現。しかし、その後13年間制作を中断する。

現在は、メキシコ人の友人を頼りにメキシコを訪れたのがきっかけでメキシコに住む。在住歴27年間。制作活動を続けている。

(2011年3月 更新)


この執筆者によるストーリー

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 ―その9/9

2011年6月7日 • 廣瀬 公二

その8>>1969年、イサムは香川県高松市牟礼町(むれちょう)に住む、日本の黒御影石などに魅せられたのがきっかけで庵治石(あじいし)の産地であったことが住まいとアトリエを構える事にイサムの心を決定づけた。良きパートナーとして助手の和泉正敏氏を得て精力的に制作を始める。1986年、スライド・マントラを制作、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表として出品する。1987年レーガン大統領より「アメリカ国民芸術勲章」を受章。1988年、「勲三等瑞宝章」を授与される。 札…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その8/9

2011年5月24日 • 廣瀬 公二

>>その7サムは、淑子と結婚する以前の事だったが、イサムは1951年に再来日して、丹下健三氏と共に広島に行き、橋のデザインも描いていた。そして、広島の原爆慰霊碑のコンペに応募したことがあった。建築家の丹下健三氏の推薦もあったが採用されなかった。その理由はイサムにとって、またまたショックな出来事であった。審査員の一人が、イサムはアメリカ人だと罵った。「原爆を投下したアメリカ人のデザインを採用する訳にはいかない」との理由であった。しかし、イサムは丹下氏に「自分は日本人の血も半分…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その7/9

2011年5月17日 • 廣瀬 公二

>>その6新婚旅行から帰国したイサムと淑子は、北大路魯山人の北鎌倉の屋敷の離れを借りて、住まいとアトリエを構え、新婚生活を始める。イサムは、魯山人の釜で陶芸に勤しんだ、淑子は、北鎌倉から撮影所に出かける毎日であった。・・・・・ 北大路魯山人は、京都の上賀茂神社の社家、北大路清操、とめの次男・房次郎として生まれる。6歳の時に木版師・福田武造の養子となり、10歳の時、丁稚奉公に出される。書・篆刻(てんこく)を学び、優れた才能を発揮する。これらは、後の魯山人のすべての仕事の基礎…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その6/9

2011年5月10日 • 廣瀬 公二

>>その5イサムは、1943年、はじめて照明作品「Cylinder lamp」を制作する。1944年、「Caffee table」と「Dinette set」デザイン、後に、Heman Miller社によって量産された。1946年、ニューヨーク近代美術館「14人のアメリカ人展」に大理石の組み合わせ彫刻を出品して絶賛される。1948年には、インドのガンディー記念碑をデザインする。1949年、ニューヨークのチャールズ・イーガン ギャラリーで1935年以来、初の個展を開く。195…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その5/9

2011年5月3日 • 廣瀬 公二

>>その41937年、メキシコからニューヨークに戻ったイサムは、初めての量産品「Radio Nurse」の制作を手がける。そして、1939年には、ニューヨークで初めてのテーブルのデザイン作品「Table for A. conger Goodyear」を発表する。 1941年、ニューヨークで知り合った親友の画家アーシル・ゴーキーとロサンゼルスのハリウッドで生活を共にする。アルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、トルコ人によるアルメニア侵攻で、アルメニア人虐殺に合い、母を失…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その4/9

2011年4月26日 • 廣瀬 公二

>>その31936年、32歳の時、イサムはメキシコシティーのアベラルト・ロドリゲス市場の壁画レリーフ(メキシコの歴史)を制作するため、メキシコで8ヶ月過ごすことになる。・・・・・壁画は、今も市場の2階の踊り場に上がると窓から逆光が差し込む薄暗い空間にひっそりと当時のまま存在し、あたかもイサムとフリーダがここに居合わせるかのように時を越えて静かに作品が語りかけて来る。壁画レリーフは、当時のイサムの思想を表現したもので、壁から大胆に突起したレリーフに沈んだ色調で彩色されている。…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その3/9

2011年4月19日 • 廣瀬 公二

>>その2華やかなパリで恋に浮かれ、師と仰ぐブランクーシ一のもとで助手になるという願いも叶い、多くを学んだ。1年間だけのグッゲンハイム奨学金は、それ以上の延長は許されず、イサムは、1928年、やむなく、パリからニューヨークに戻った。翌年の1929年、最初の個展を開催する。しかし、出品した抽象彫刻は、まったくと言っていいほど評価が得られなかった。 一方、生活のために請け負った具象の頭部彫刻は絶賛された。それらを売った金で1930年から1931年にかけてパリを経由して、ベルリ…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その2/9

2011年4月12日 • 廣瀬 公二

>>その11918年、母レオニーは、インディアナ州、ローリング・ブレーリーの公立中学校、インタラーケン・スクールに入学さす為に13歳のイサムを単身でアメリカに送った。まだ中学生だったイサムは、母レオニーに対してある疑念を抱いたに違いない。イサムは深い孤独感を味わいながら過ごすことになる。そして、両親の知人でもあり、後見人だったエドワード・ラムリー博士は、彼をスウェーデンボルグ派の聖職者サミュエル・マック博士の家に下宿させます。そこで、イサムはスウェーデンボルグに心酔していた…

偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その1/9

2011年4月5日 • 廣瀬 公二

ノグチ・イサムを語る前に、イサムの父、米次郎について少し語らなければならない。それは、イサムの人生の中で重大な原点でもあります。 父、米次郎は、1875年、愛知県津島町に生まれ、読書好きだった少年は、8、9歳で英語を学び、15歳で上京、慶応義塾に入学するも中退する。16歳までに知人を通じて米国の情報を得ていた。福沢諭吉が「人生は一六勝負のようなものだ」という文の言葉に、1893年、渡米を決意する。サンフランシスコに到着した米次郎には、多くの苦難が待っていた。 幸運に…

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