ジョーダン・ヘルファンド

(Jordan Helfand)

ボストンのコモンウェルス高校3年のジョーダン・ヘルファンド君は、アメリカ史、化学、そして数学に高い関心を持っています。ジョーダン君は、被爆者の診療と医療保障の訴えに長年を費やしたイノウエ医師の孫です。ジョーダン君の文化背景は多様で、日系アメリカ人、アイヌ、そして東欧にルーツがあります。ジョーダン君は、サッカー、バスケットボール、スポーツ統計にも興味があります。写真は、ジョセフ・ケネディ下院議員(マサチューセッツ州選出)からアメリカ合衆国議会賞(U.S. Congressional Award)銅賞が授与された時のものです。ジョーダン君は、地域貢献、体力づくり、自己発展活動に960時間以上参加し、若者のためのアメリカ合衆国議会賞の金賞を新たに受賞しました。ジョーダン君は、2015年秋からブラウン大学に進学します。

(2015年3月 更新)

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放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その3

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1970年代後半、アメリカ人被爆者は連邦政府に対し、保障を求める戦いを続けましたが、その努力が報われることはありませんでした。1978年までに25~30人の国会議員が膨大な数の法案を提出しましたが、いずれも可決されることはありませんでした。1 すべてが否決された背景には、アメリカ人被爆者は「原爆が投下された時は敵国人だった」、という変わらない考えがありました。

すべての原爆被害者にアメリカ政府が何らかの救済措置を施すことは、次のことを示唆しました。「被爆者に医療手当を支給することは、彼らの身に起こったことのモラル的、歴史的責任を認めることになる。従ってアメリカ政府は日本政府が医療提供者となるべき、と主張するだろう」。2 この考え方はアメリカ人被爆者にも適用される可能性があり、彼らもやがて、日本政府からの経済的支援に頼らざるを得ないかもしれませんでした。

連邦政府は ...

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放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その2

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心理的、精神的傷は長年に渡り彼らの心を傷つけ、被爆者は精神的に孤立した生活を送っていましたが、1960年代、彼らは団結を始めます。原爆症の悪化に伴う癌などの病気が併発するようになり、被害者は人々の理解を求めるようになりました。また、「インターナショナル・ブライド(戦争花嫁)」、つまり米国人と結婚した日本生まれの被爆者が、伴侶(日系アメリカ人の場合もある)と共にアメリカに到着するようになり、1960年代から70年代にかけてアメリカ人被爆者は「ヒバクシャ・フレンド・グループ」等の団体を組織するようになりました。

1965年8月6日、広島の原爆の日、日系アメリカ人新聞の『羅府新報 ...

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放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その1

1925年4月27日、カリフォルニアの日系アメリカ人移民の子として生まれたミツオ・イノウエ医師は、自分や家族のためだけでなく、後に『ピープル』誌に「失われたアメリカ人」と呼ばれることになる、およそ1,000人のアメリカンドリームをかなえるために力を尽くしました。日系人のみを標的とし、日系アメリカ人の農地の所有を禁じた1920年の外国人土地法や、特にアジアの国々からの移民の数を制限したジョンソン=リード法(アジア人排除法を含む)が成立した時代、イノウエ家のような日系人一家を待ち受けていたのは、ひどい人種差別と貧困でした。ほとんど英語の話せない移民一家だったイノウエ家は、農場労働者としてつつましく生きる他に道はありませんでした。そして1941年12月、日本による真珠湾攻撃は、すでに困窮していた彼らの暮らしをさらに悪化させました。

真珠湾攻撃直後の米国メディアの記事は ...

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