ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/author/helfand-jordan/

ジョーダン・ヘルファンド

(Jordan Helfand)


ボストンのコモンウェルス高校3年のジョーダン・ヘルファンド君は、アメリカ史、化学、そして数学に高い関心を持っています。ジョーダン君は、被爆者の診療と医療保障の訴えに長年を費やしたイノウエ医師の孫です。ジョーダン君の文化背景は多様で、日系アメリカ人、アイヌ、そして東欧にルーツがあります。ジョーダン君は、サッカー、バスケットボール、スポーツ統計にも興味があります。写真は、ジョセフ・ケネディ下院議員(マサチューセッツ州選出)からアメリカ合衆国議会賞(U.S. Congressional Award)銅賞が授与された時のものです。ジョーダン君は、地域貢献、体力づくり、自己発展活動に960時間以上参加し、若者のためのアメリカ合衆国議会賞の金賞を新たに受賞しました。ジョーダン君は、2015年秋からブラウン大学に進学します。

(2015年3月 更新)


この執筆者によるストーリー

放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その3

2014年10月29日 • ジョーダン・ヘルファンド

その2を読む >> 1970年代後半、アメリカ人被爆者は連邦政府に対し、保障を求める戦いを続けましたが、その努力が報われることはありませんでした。1978年までに25~30人の国会議員が膨大な数の法案を提出しましたが、いずれも可決されることはありませんでした。1 すべてが否決された背景には、アメリカ人被爆者は「原爆が投下された時は敵国人だった」、という変わらない考えがありました。 すべての原爆被害者にアメリカ政府が何らかの救済措置を施すことは、…

放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その2

2014年10月28日 • ジョーダン・ヘルファンド

その1を読む>> 心理的、精神的傷は長年に渡り彼らの心を傷つけ、被爆者は精神的に孤立した生活を送っていましたが、1960年代、彼らは団結を始めます。原爆症の悪化に伴う癌などの病気が併発するようになり、被害者は人々の理解を求めるようになりました。また、「インターナショナル・ブライド(戦争花嫁)」、つまり米国人と結婚した日本生まれの被爆者が、伴侶(日系アメリカ人の場合もある)と共にアメリカに到着するようになり、1960年代から70年代にかけてアメリカ人被爆者は「ヒ…

放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語 ~その1

2014年10月27日 • ジョーダン・ヘルファンド

1925年4月27日、カリフォルニアの日系アメリカ人移民の子として生まれたミツオ・イノウエ医師は、自分や家族のためだけでなく、後に『ピープル』誌に「失われたアメリカ人」と呼ばれることになる、およそ1,000人のアメリカンドリームをかなえるために力を尽くしました。日系人のみを標的とし、日系アメリカ人の農地の所有を禁じた1920年の外国人土地法や、特にアジアの国々からの移民の数を制限したジョンソン=リード法(アジア人排除法を含む)が成立した時代、イノウエ家のような日系人一家を待…

ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら