福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

media en ja

日本人監督が描いた日系収容所体験: 映画「Toyo’s Camera」

1月29日、ロサンゼルス・ダウンタウンのジャパンファンデーションを会場に、「Toyo’s Camera」と題されたドキュメンタリー映画の試写会が開催された。この映画は、日本で活動した後にグリーンカードを取得してアメリカに拠点を移したす ずきじゅんいち監督によって企画、演出されたものだ。

7年前にアメリカに移住したすずき監督にとって、日系人から聞く収容所体験は、日本にいた頃はほとんど知る機会がないものだった。確かに日本人は、 海外に出て行った人々に対して関心を持ってないようにも思える。社会の教科書で「海外移住」を学んだ記憶もない。筆者が日系アメリカ人について知ったの は、NHKで放送された「二つの祖国」が最初で、その後 ...

続きを読む

community en ja

日系人の歴史を伝えるノンジャパニーズ: 全米日系人博物館でドーセントを務めるネーハン・グルックさん - その2 学生たちに伝え、収容所跡地へ赴く

>> その1

1992年にロサンゼルス郡の役所を引退後、ハートマウンテン収容所のバラック小屋を目にしたことがきっかけで、94年から全米日系人博物館でボランティアを務めるようになったネーハン・グルックさん。彼に日系の血は流れていない。

しかし、「少しでも多くの人が日系アメリカ人の歴史を知るべきだ」と、同じアメリカ人として、同じ人間としての義憤に駆られたネーハンさんは、以来14年間,博物館に週に2日以上,通い続けている。

最初は、海外戦に従事した日系人兵士の展示「ファイティング・フォー・トゥモロー」でのギャラリーガイドから始まった。すぐに、組織内の委員会にも 活躍の場を広げるようになった。一ボランティアに留まらず、博物館の運営自体にも深い関心を持つネーハンさんは ...

続きを読む

community en ja

日系人の歴史を伝えるノンジャパニーズ: 全米日系人博物館でドーセントを務めるネーハン・グルックさん - その1 同じアメリカ人なのになぜ?という思い

私自身は日本生まれの新一世だ。渡米して17年が経ち、その間、さまざまな日系人の方々に取材をしてきた。リトルトーキョーにある全米日系人博物館にも、旧東本願寺の建物を使用した旧館時代からたびたび訪れる機会があった。

この17年間の経験を通して、私たちが何の問題もなくアメリカで暮らすことができる基盤を築いてくれた日系人の先達への敬意は揺るぎないものとなっている。しかし、それは知ることがなければ育まれなかった気持ちである。人は知ることなくしては、感謝することはできない。

何が言いたいのかと言うと、短期間アメリカに赴任してくる日本からの駐在員はもちろん、永住している人の中にも、戦時中に日系アメリカ人が強制収容 所に送られていたことを知る人があまりにも少ないということだ。その歴史の事実を知らなければ、義憤も、また感謝さえも感じることはない。

全米日系人博物館でドーセント(ガイド)のボランティアを務めるネーハン・グルックさんは、ドイツ系アメリカ人だ ...

続きを読む

migration en ja

帰米二世に嫁入りした日本人女性の記録: カリフォルニア州モンテベロ在住の加藤雅子さん - その3 穏やかな引退生活、今は孫がレストランの道へ

その2を読む >>

戦後、リトルトーキョーで盛業していたダルマ・カフェの子息、加藤光男さんに日本からお嫁入りした雅子さん。しかし、渡米5年後には、巨額の改修費用をかけたにもかかわらず、再開発地区に指定されていたため、建物を追い出される羽目になる。

そして、自宅のあるモンテベロで日本食レストランを開業するが、日本の両親が娘のアメリカでの生活を見に来ることになり、当時、困窮していた暮らしぶりを知られないようにとその店も2年で閉めてしまった。

店を閉めると同時に、幸運なことに、光男さんはユナイテッド航空の機内食を作っていた会社に採用された。友人から声がかかったのである。

「まだ(国内線でも)機内食を出していた頃で、とにかくその会社は人手が足りなくて,友達に『ミツ ...

続きを読む

migration en ja

帰米二世に嫁入りした日本人女性の記録: カリフォルニア州モンテベロ在住の加藤雅子さん - その2 夢のような新生活から一転、苦難の道へ

その1を読む >>

山野愛子さんの家でお見合いをした雅子さんと、加藤光男さんは、その1週間後には式を挙げていた。結婚式のアルバムからは、当時にすれば桁外れに豪華だったに違いない様子が伺える。

雅子さんの打ち掛けは斬新なレース製、かつらは従来の重いものとは違い網でできた新作だった。すべて山野愛子さんの作品である。さらに、花嫁のお化粧も、美容業界の大御所だった愛子さん自らが施したそうだ。

「日本にはまだモノクロの写真しかなかったのですが、光男がカラー写真のフィルムを入手してきて、屋外だったらカラーでも大丈夫だと皆で式場の屋上 に上がって撮影しました。それから1956年当時、日本の結婚式にはウェディングケーキなんてなかったのですが、これも愛子さんのアイデアで豪華なケーキ が登場しました」
花嫁の口にケーキを運ぶ花婿の写真からは、とても1週間前に初めて相手に会ったとは思えないほどの幸福感が伝わってくる。

挙式後は箱根と関西に新婚旅行に出かけた。そして、雅子さんの準備が整うとすぐに ...

続きを読む