福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

migration ja

紆余曲折の末、リージョナル航空の機長になった藤田尚弥さん

30歳を前に家族連れで航空留学

「もし、あの時決断していなかったら、今でも日本の空を飛ぶ飛行機を見上げて『あの時やってたら今頃あそこにいたかもなあ…』と心の中でつぶやいていたと思います」と話すのは、アメリカのリージョナル航空会社、スカイウエストエアラインズで機長を務める藤田尚弥さんだ。シニョリティー(社歴)が人事判断の基準となるアメリカの航空会社だが、藤田さんの同社でのシニョリティーの順番は、全社に現在5262人いるパイロットの中で1451番目。現在のようなパンデミックの中にあっても「この会社にいる限りおそらく解雇の確率はほぼないですし、今でもかなりの便数を飛んでいます。パンデミックの前、他の航空会社に転職すればいいのに、と友人に言われたりもしました。しかし、そうすればシニョリティーが下がってしまい、またやり直しです」と藤田さんは話す。彼がそれだけ仕事の安定にこだわるのは ...

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food ja

絆2020:ニッケイの思いやりと連帯―新型コロナウイルスの世界的大流行を受けて

二転三転する営業規制下での取り組み — ヴィーガンレスランのオーナー、中尾昭さん

「以前と同じことをやるだけ」

オレンジ・カウンティーのハンティントンビーチ。フリーウェイからはかなり離れた、目立たないショッピングモールの、これまた奥まった片隅にヴィーガンレストランVegiLicious(ヴェジリシャス)はある。カレーやラーメン、神戸焼肉丼といった日本的な料理もメニューに並ぶ同店のオーナーシェフが中尾昭さんだ。ヴィーガンメニューの店なので、当然ながらすべての食材が植物由来で、しかもオーガニック。そのヘルシーでしかも中尾さん自らが愛情を込めて作る料理の数々が評判を呼び、恵まれない立地条件ながら、グルメ系ソーシャルメディアでは長らく五つ星を獲得し続けている。

しかし、2020年3月、オレンジ・カウンティーも新型コロナウイルスによるロックダウンに突入、レストランは、テイクアウトとデリバリーのみという苦しい規制を科せられた。ところがFacebookを見る限り、VegiLiciousは中尾さんと接客を担当する妻の亜津子さんとで、毎日変わらずに営業しているようだった ...

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米国で生きる日本人の選択

アメリカに残る人々が日本に引き揚げない理由

子どもの存在、医療、言葉

移住したアメリカから日本に引き揚げた人々に話を聞き、さらに一度は日本に帰国したが改めてアメリカに戻ってきた人の回に続き、アメリカを終の住処と決めた人々にも彼らの決断について聞かせてもらった。

在米50年になる70代男性Tさん。アメリカで語学を勉強し、日本に戻ったら映画評論家になろうと思っていたと話す。しかし、渡米3年目、父親が亡くなった。「母親はすでに私がアメリカに渡る前に亡くなっていたので、親がいない日本にもう戻る理由はないという気持ちになりました。そこで勤め先にスポンサーをしてもらいグリーンカードを取得し、結婚をして、子どもが3人生まれました。若い頃は日本に帰りたいだとか深く考えることはなかったですね。それよりも子どもたちの教育にとって、日本がいいのか、それともアメリカがいいのかと考えたら、それはもう受験一辺倒の日本ではなく、自由なアメリカがいいという結論に至りました」。

年齢を重ねた後も、日本に帰ろうという気持ちが一度もよぎることはなかったのだろうか ...

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米国で生きる日本人の選択

31年間の米国生活から日本に引き揚げた後永住権を再取得した徳留絹枝さん

子どもの将来考え永住権取得

様々な理由で米国暮らしの後に日本に引き揚げたり、またアメリカに残る選択をしたりする新一世の話を聞くうち、一度日本に引き揚げた後に再びアメリカに戻ってきた人の話も聞きたいと思うようになった。そんな時、2019年の夏にオレンジ・カウンティーのアーバインで開催されたセミナーで、偶然再会した徳留絹枝さんのことを思い出した。徳留さんはユダヤ人と日本人の関係に焦点を当てた著書で知られる活動家(私はジャーナリストだと思っていたが、徳留さん本人は活動家と紹介してほしいと言う)で、再会した時「日本に一度帰っていたんですが、またアメリカに戻ってきました」と話していたのだ。再会から1年以上経ったコロナ禍の中、私はzoomで徳留さんの帰国の決断、永住権を取得し直して再移住した経緯を伺う機会をもらった。

徳留さんが最初に渡米したのは夫のアメリカ駐在への同行が目的で、1978年のことだった。二人の子どもは当時まだ幼く、土曜の日本語補習校には通っていたが、「子どもたちがこれから日本に帰ると言葉や生活習慣の面で苦労するに違いない」と思い ...

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米国で生きる日本人の選択

永住権当選から18年後の現在地 — 中島恒久さん

時給7ドルからのアメリカ生活

サンフランシスコ近郊のIT企業でCOOを務める中島さんと知り合ったのは、某日系ビジネス団体の会報向けの取材だった。取材後に彼のプロフィールをまとめるために名前で検索した。すると、てっきり日本からの駐在員だと思っていた中島さんが実は、同時多発テロ事件直後に永住権抽選プログラムでグリーンカードを手にし、自力で渡米した人だということが分かった。最近は狭き門となっている同プログラムだが、当選後にアメリカに移住した人たちのその後を知りたいと思っていたこともあり、改めて取材を申し込み、話を聞かせてもらった。

中島さんがアメリカを意識し始めたのは、高校生の頃、夢中になったジャズ音楽がきっかけだったと振り返る。「大学生になると、ますますジャズにのめり込んで、ベースを演奏していました。仲間の中にはボストンの音楽大学に留学する人もいました。でも僕は行くなら留学や、ましては旅行ではなく、地に足つけてアメリカで生活してやると思っていました。単なる妬みなんですけどね(笑)」。

当時大阪に住んでいた中島さんは ...

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