天海 幹子

(あまがい・みきこ)

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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Quiet Warriors

ミン(ミノル)・ツボタさん

「虎年の人は一針以上縫ってもいいんですよ。虎は強いから、縁起がいいでしょう」。そう言って「千人針」を見せながらミン・ツボタさんは説明する。「女の人しかできないんですよ。ツーリ・レイクのキャンプでお母さんがね、作って渡してくれたから、僕は(戦争で)助かったと思う」。心持ち潤んだ、遠くを見る眼がやさしい。収容所で女性に会うたびに一針づつ頼んで回ったという、赤い玉縫いが千個も几帳面に並んだ生成り(きなり)の帯は、ところどころに小さな染みが付いているものの、まだほとんど新しい米袋で作られているように見える。「ほんとに嬉しくてね、畳んで袋に入れていつも持ち歩いていました」 ミンさんは1918年、ケント市で10人兄弟の末っ子として生まれた。両親は第1次大戦後に広島から移民。父は鉄道の枕木を作る製材所を経営し、日本にも輸出していた。 ミンさんはアメリカ兵として徴兵が始まる前の41年3月に志願した。カリフォルニア州、キャンプ、ロバーツで基礎訓練を受け、キャンプ、サン・ルイ・オビスボに配属された。ここでミンさんは高校時代から練習していたサクソフォンの腕が認められて160部隊の音楽隊にはいる。 「僕はラッキーでしたね。そのころハリウッドから一流のプロのミュージシャンが州兵軍に志願してきたんですよ。徴兵されたくないからその前にって。僕はプロのミュージシャンと会えただけでも光栄でした」 とこ…

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ポール・ホソダさん

「平等と公正さ、それが僕にとっては考え方の出発点になっているんです」と語るポール・ホソダさんの土台には高校時代から触れていたキリスト教の思想がある。「神の下では全ての人間は平等である」と強く信じるホソダさんの傍らには、48年連れ添ったメアリー夫人が微笑む。 2人はホソダさんが除隊後通い出した、シアトルのブレイン・メモリアル・合同メソヂスト教会で知り合った。「最初は女の子を探しに行ったんですよ。教会は人に出会うにはもってこいの場所だから」と照れながらも、現在も2人は教会での奉仕に深く関わり重要な存在を示す。ホソダさんの「正義」がキリスト教の思想に後ろ盾されて信念となるには、17歳からの軍隊の経験が大きくものをいう。 アイダホ州南東で生まれ育ったホソダさん家族は収容所体験はない。父親はレストランを経営していたが、日本軍の真珠湾攻撃後は店を貸し、ひっそりと暮らす。当時ユタ大学1年生だったホソダさんは、間もなく軍隊に志願したが、「敵国人」という理由で日系人を受け入れる軍隊はどこにもなかった。コックとしてなら軍隊にはいれるかとも思い、料理学校に通い始める。 43年に法の規制が変わり、7月ホソダさんは442部隊に入隊を許可され、ユタ州フォート・ダグラスからミシシッピー州キャンプ・シェルビーでトレーニングを受けた。このキャンプで442部隊が編成されたのだが、上層部を除いて全員日系人の…

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ミツル・タカハシさん

「ブロンズ・スター(勲章)はあんまり意味がないんですよ。戦争に行った人はだいたいもらえるから。これがシルバー・スターで、これがパープル・ハート(名誉戦傷勲章)。ドッグ・タッグ(兵士が首から下げる「犬の鑑札」と同じ様なID札)。これが大統領からの感謝状。そしてこれは除隊証明書」と額に入った数々の記念品を指して笑顔で説明するミツル・タカハシさん。ミネドカ(*)収容所の高校からスイート・ハートだった、奥さんのジューンさんがまとめてくれた額だ。 「どこを怪我したんですか」との質問から戦争の話に入り込むと表情がこわばって来るのが感じられる。「イタリアでドイツ軍から待ち伏せの攻撃を受けた時、肩をやられたけれど、弾は骨も肺も避けたので、ラッキーでした」 タカハシさんはシアトル生まれ。長野県松本出身の父は庭師として生計を立て、ワシントン大学の植物園内、日本庭園の造園にも加わった。1942年、両親、3人の姉妹と共にピュアラップからミネドカの収容所に連行される。収容所内の高校を卒業後44年、442部隊に志願。フロリダ州からミシシッピ州キャンプ・シェルビーでトレーニングを受け、ヨーロッパ戦線に送られた。部隊はL部隊、BARマン(ブラウニング・オートマチック・ライフル隊)として前線に立つ。 「戦争の第一印象は、フランスのル・アーブル港に着いた時でした。港町なのにウォーターフロントは何もないんで…

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パット・ハギワラさん

「僕はラッキーだったと思いますよ。アラスカで生まれてからずっとね。小さなコミュニティだったから、お互いをよく知っていて、学校なんかも幼稚園から高校まで1つの校舎でね。日本人が9軒か10軒集まっていたメインストリートのステッドマン街では、冬は店を閉めて、子供たちが坂の上からそりで滑ってくるんですよ」 まるで昨日の事に様に楽しそうに話すのは、パット・ハギワラさん(84)。アラスカ州兵軍から442部隊に送られた4人の二世兵士の1人だ。物静かな日常を好む、穏やかな日系人というイメージを受ける。 長野県生まれの父は1907年に1度アラスカに来たが、16年に日本へ帰り滋賀県生まれの母と結婚した。2年後に再び小さな漁港、ケチカンに一足先に戻り、「アラスカ・ホーム・ベーカリー」というパン屋を始める。母はその後、3週間船酔いに悩まされながら父の後を追って来る。キッチンを手伝いながら4人の子供を育てた。 次男のハギワラさんは父の仕事の手伝いから逃げてばかりいた。「兄や妹、弟は手伝っていましたけど、僕は鉄板に油を塗ったりするのなんか、できるだけ避けていましたよ」。だが高校卒業後ポートランドの専門学校へ3カ月通った時と戦争が勃発するまでは、家族から離れたことのない、結束の強い家族の中で育った。 真珠湾攻撃の3カ月ほど前、アラスカ州兵軍からの呼びかけに応募した。チルクート・バラックスという基地に駐…

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アート・進(ススミ)さん

「恐くはなかったですよ。戦争で周りに死んだ人を沢山見ていましたからね」と語るのは22歳で葬儀屋になったアート進(ススミ)さん。亡骸(なきがら)と同じ屋根の下で眠るのは恐くなかったかの問いの答えである。第2次世界大戦では442連隊部隊で活躍し、ブロンズ・スター賞を受けたススミさんは全米でも数少ない、ワシントン州では唯一の日系葬儀屋のディレクターを43年務め、91年にそのERバターワース葬儀社を退職した。戦争が、若かったススミさんのその後の人生に少なからず影響していることは事実だ。 ススミさんは戦前のシアトル市日本町(8番街とワシントン通り)、現在の日本館付近に生まれる1。父親は福岡、母親は名古屋出身。大恐慌後の1930年代の幼少時、父はジョージタウン(シアトル市南)で軽食・ワッフルハウスを営み、母は白人の家のメードを務めた。その後家族はウェスト・シアトルに移り、戦争勃発まで小さな花屋を経営。41年にウェスト・シアトル高校を卒業してからは父の仕事を助けた。 ススミさん一家はシアトルの他の日系人同様、ピュアラップの仮収容所からミネドカ2の収容所に移される。ススミさんはそこで軍隊に志願し、442部隊の最初の兵士としてミシシッピ州ハッティズバーグで13週間のトレーニングを受けた。 「ハワイから来た日系人とは折り合いが悪く、仲良くなるのに何カ月もかかりました」と、ススミさんは当時を振り…

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この筆者が寄稿しているシリーズ