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それはグローバルな旅の結果―ブラジルの栽培作物の変化と日本移民- その3

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3.日本移民が変えたブラジルの柿、リンゴ、パパイヤ

日本移民は、3起源の作物を改良している。つまり、既存のもの、外来のもの、日本伝来のものである。これらの3起源の栽培植物は時間的にも空間的にも長い旅をし、ブラジル人に新しい味覚とそれぞれの作物の新たなイメージをもたらした。その例をブラジルにおける柿、リンゴ、ハワイ・パパイアの導入と栽培過程から紹介する。

1)渋柿を甘柿に

カキの原産地は、中国揚子江沿岸および日本の南半部の夏湿気候帯とされる1。ブラジルには日本移民が導入される以前から柿の木は存在していた。ブラジル柿苗が輸入されたのは、フランスからとされる。ブランス人の販売者とブラジル人の購入者の名が記録として明確に残っている最古の年は1890年であるが、それ以前の1880年代にすでにフランスからブラジルに、柿の苗かあるいは実が輸出されていた2。いずれも、日本名「カキ」(kaki)とともにフランスに輸出され、さらにフランスからブラジルに再輸出され、ブラジルでも「カキ」(caqui)である。

19世紀にブラジルに導入されたカキはいずれも渋柿であり、ブラジル人は、軟らかくて渋を抜いたものを食べてきた。軟らかくなった柿は、硬い柿とは異なり、皮のまま櫛型に適当な大きさに切り、「食べる」(comer)というより「吸う」(chupar)という言葉を用いて食されていた。あるいは、スプーンで「すくって」食する果物であった。さらに、軟らかくなっていることから、ジャムに加工して食される習慣もあった。1970年代に入っても、生鮮食品市場では軟らかいカキを購入する時は、容器を持参して購入する消費者の姿が観られた。

第二次世界大戦以前の日本移民にとり、柿の木は、故郷の懐かしい景色に繋がるものとして日本人農家の庭先に、観賞用あるいは自家消費用として植えられていた。「カキ」の木は、日本から西回りの長い旅をして、ブラジルで日本人と出会ったことになる。富有柿に代表される甘柿は1916年、次郎柿は1923年に、それぞれ直接日本から日本移民によって導入されたが、ブラジル人にとり渋を抜いた軟らかい渋柿が「カキ」であったことから、甘柿が消費市場に出回ることはほとんどなかった。

大戦後の50年代に入り甘柿の栽培が順調に進んだが、消費者の嗜好は依然軟らかい渋柿に集中し、商品化はさらに遅れた。1952年5月にサンパウロの郊外モジダスクルゼスでブラジル最初の柿まつりが開催され、甘柿の宣伝が行なわれたが、期待するような消費の伸びはみられなかった。特に、サンパウロに次ぐ消費市場を有するリオデジャネイロでの需要が伸びなかった。

ところが、日持ちが良い甘柿は、インフラの整備に伴い輸送に耐えることからサンパウロを中心に需要が次第に伸び、70年代に入り消費市場は渋柿から甘柿へと変化していった。80年代には少量とはいえヨーロッパへの輸出が開始されている。当時の甘柿の生産量は約15400トン、今日(2005年)ではおよそ16万5000トンと10倍以上に及んでいる3。ブラジル人にとって今日では、柿は「カキ・フユ」(caqui fuyu)となり、硬い果肉を「食べる」果物となった(写真1参照)。都市で育った50代までのブラジル人は、「柿は食べるもの」と解しており、「吸う」、「すくう」という表現は知らない。

写真1:サンパウロの朝市に並ぶ富有柿(2006年7月細川多美子撮影)

2)ポカポカからパリパリリンゴに

19世紀末にヨーロッパ移民が多数導入されたことにより、実生でのリンゴの栽培が南部3州(サンタカタリナ、パラナ、リオグランデドスルの各州)で繰り返し試みられてきた。しかし、コーカサス地方を原産地とするリンゴ栽培は、熱帯、亜熱帯気候のブラジルではなかなか成功しなかった。

ブラジルでリンゴが商品として市場に本格的に登場するのは、1970年代末のことである。それまで、ブラジルにはアルゼンチン産のリンゴが輸入されていた。南半球で栽培されたアルゼンチン産リンゴは、市場からリンゴが消える夏にヨーロッパで珍重された。とはいえ、アルゼンチン産リンゴの最大の輸入国はブラジルで、生産量の半分が輸出されていた。アンデス山脈のふもとのネグロ川に沿ったネオケン州がアルゼンチンのリンゴの主要な栽培地で、ブラジルで「リオネグロ」と呼ばれるリンゴは「高級果物」の代表であった。

生鮮食品を輸送する手段が十分に発達していなかった時代に、国境を越えての輸送は、日本人の考える「新鮮な」リンゴではなかった。果肉の硬度が下がり軟らかくなったものがブラジル人にとっての、リンゴという果物であった。健康によいとされるリンゴを手で二つに割り、主に病人や幼児がスプーンですくって食べていた。

ブラジルで本格的なリンゴ栽培の研究が開始されたのは、1964年、サンタカタリナ州フライブルゴにおいてであった。1968年、日本の国際協力事業団がリンゴ研究の第一人者をブラジルに派遣し、6年間技術指導と品種の選定にあたり、サンタカタリナ、パラナ、リオグランデドスルの各州海抜1000メートル以上の高地で本格的な栽培が開始された。選定された中心品種は日持ちの良い「フジ」で、サンタカタリナのサンジョアキンに日系の農業協同組合が大規模なリンゴ生産農園を建設した。1986年のブラジルのリンゴ生産は30万トンに達した。これに伴い、ブラジルではアルゼンチンやヨーロッパからのリンゴ輸入が減少し、86年の8万トンから89年には5万4000トンとなった4。ブラジルの輸入の減少とは反対に、生産時期が異なることからブラジルからヨーロッパへ輸出が80年代に始まった。2003年の生産量は84万2000トンに及び、消費市場に登場した80年代の生産量の約3倍に達している5

ブラジルのリンゴ栽培の発展には、軍事政権下の道路網の整備と輸送手段保冷車の普及が大きく貢献している。今日、ブラジル熱帯のアマゾン地方を訪れても市場(いちば)で「フジ」を手にすることができる6。

アルゼンチン産の輸入リンゴ「リオネグロ」のから国産の「フジ」リンゴへと、消費が変化する伴い、ブラジル人のリンゴのイメージも変化した。リンゴは輸入品の高価な果物ではなくなり、日本の23倍の広大なブラジルで誰でもが手にすることができる庶民の果物となった。病人食のポカポカリンゴではなく、噛りつくことのできるパリパリリンゴとなったのである(写真2参照)。

写真2:りんごふじの並ぶサンパウロの朝市(2006年5月細川多美子撮影)

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注記
1. 小林、153頁。
2. ブラジルの農業編集部編、35頁。
3. 日本移民80年史編纂委員会編、289頁及びhttp://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16)。
4. 日本移民80年史編纂委員会編、291頁。
5. http://www.brasilianfruit.org/ (2007/05/16)
6. 同じ熱帯の北東部のレシッフェ市では生牡蠣をレストランで楽しむことができる。
牡蠣は3000キロ以上離れたサンタカタリナ州の海で養殖されたもので、リンゴと同様に輸送網と輸送手段の発展によって熱帯ブラジルに出現した生鮮食品である。


*本稿は、 立教大学ラテンアメリカ研究所による『立教大学ラテンアメリカ研究所報. 第39号』(2011年3月31日. pp. 51-60)からの転載です。

© 2011 Institute for Latin American Studies, Rikkyo University

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