ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/article/3550/

ロサンゼルスの寿司-その1

私は、毎週行われているメリノール宣教会の会合で、寿司がいつ、どのようにしてロサンゼルスへ渡ったか、友人に尋ねたことがありました。コウ・ホシザキ氏は、その質問に答えられるのは、ロサンゼルス・ビジネス街に拠点を置く、共同貿易株式会社(以下MTC)の代表取締役社長である金井紀年(カナイ・ノリトシ)氏であろうと教えてくれました。ホシザキ氏によると、金井社長はそのことについて書いた本を出版しているというのです。1

それを聞いた私は、即座に金井さんを紹介してくれるよう彼に頼み、彼も私の要望にすぐに応えてくれました。こうして私は、この伝説的とも呼べる人物と会うことができたのです。長身で印象的な雰囲気の金井さんは、86歳にして現役の社長で、ホシザキさんのお父さんが引退した何年も後に、会社を引き継ぎ、現在も会社経営を指揮しています。2

金井さんは、1923年に群馬県の金井家の三男として生まれました。1941年、旧制東京商科大学(現一ツ橋大学)に入学し、輸出入分野を学びました。戦中、彼の年代のほとんどの学生がそうだったように、彼もまた徴兵され、1943年に入隊しました。その後金井さんは、需品係将校としてビルマへ配属されました。

出征前にとった家族写真。1943年12月 (写真提供:共同貿易株式会社)

日本は降伏し、金井さんはようやく故郷の地へ戻ることができました。当時の金井さんは、人生への望みを完全に失っていましたが、どうにか大学へ戻り、卒業しました。独立志向の強かった金井さんは、何度か新しく事業を起こそうと試みましたが、その全てが失敗に終わり、莫大な借金だけが残されました。しかし、借金の返済のために始めたトラックのハイパワーエンジンの製造が成功し、わずか2年で借金を全額返済しました。

1952年、金井さんは、母親の友人である石井氏と共に、食産業に乗り出し、連名でMTC日本支部の代表となりました。そして当時のMTC代表取締役社長だったホシザキ氏が退職し、カリフォルニア州北部で輸入業を営むリチャード・イナバ氏が、社長に就任しました。その数年後、石井氏は、MTCを買い取り、3代目社長となりました。しかし、脳出血で倒れ、1964年に金井さんは家族と共にアメリカへ移住し、MTCの経営者となりました。3

金井さんが渡米する頃には、米国内の日本を嫌悪する悪意ある風潮は静まりつつありましたが、日本食への需要はまだ多くありませんでした。金井さんは、アメリカ人の味覚に合う「美味しいもの」を探し始めました。

写真提供:共同貿易株式会社

金井さんが最初に乗り出したのは、東ハトのココナッツビスケット、「ハーベスト」の輸入でした。アメリカ人の味覚に合った甘さとサクサクの食感がおいしいビスケットは、成功の可能性を大いに秘めていました。金井さんはアメリカ中を営業して周り、顧客となる会社や一般に向けてサンプルを配りました。その結果、多くの「ハーベスト」ファンを獲得しました。当時は1ドル360円の時代であり、この事業は素晴らしい成功を収めるかに思えました。金井さんは、自分もついに成功を掴んだと思いました。しかしながら、「ハーベスト」人気は、3年ほどで下火となり、売り上げは一気に落ち込みました。原因は、中国か韓国で作られたコピー商品が、「ハーベスト」よりもずっと低価格で販売されていたことにありました。金井さんは、典型的な日本人の「仕方がない」という考え方の持ち主でした。そして、長く続けられる次なる商品を探し始めました。

当時、日本の若者は、地方各地から次々に東京へ流れ込んでいました。しかしながら、東京の住宅の家賃は異常な高値で、主婦も外に出て働かなくてはならない時代になっていました。東京で暮らす若い夫婦は、これまでよりずっと便利な生活を求めるようになり、使い勝手の良い台所用品が求めていました。

そのことが念頭にあったので、金井さんは、アメリカの家庭用品を日本へ輸出する免許を取得しました。シカゴの家庭用品の展示会にも足を運び、海外への輸出に最適なものを探し周りました。

金井さんがハリー・ゴールドバーグ氏と出会ったのは、シカゴでの滞在中のことでした。金井さんは、一財産を築き、既に引退しているゴールドバーグ氏に素晴らしいビジネスセンスを見出しました。ゴールドバーグ氏は、「企業家の成功は、世の中が何を求めているのか察知し、迅速かつ最善の方法をもってその要求に応えることにある」という考えを、金井さんと話すたびに強く主張しました。

そしてゴールドバーグ氏は金井さんに、彼を歩合制で雇い、彼のビジネスの才覚をMTCへ共有することを提案しました。金井さんは、ゴールドバーグ氏の提案を受け入れ、二人の興味深いパートナーシップが始まりました。二人はアジアを旅して周り、貿易の機会を模索しました。旅の最後に二人は、MTCオフィスのある日本へ向かいました。

金井さんの案内で、ゴールドバーグ氏は始めて江戸前寿司を食べ、寿司の虜になりました。1週間後、二人はアメリカへ戻りましたが、日本を発つ前に、金井さんには高額な寿司屋の請求書が届けられました。ゴールドバーグ氏は、毎日寿司屋を訪れ、それぞれの勘定は12,000円を越えていたのです。が、金井さんは、その請求書も受け入れました。

アメリカへ戻った二人は、今回の旅行を精査し、MTCにとって最も可能性のある貿易品は何か話し合いました。すると、驚くべきことに、ゴールドバーグ氏の答えは、「寿司」だったのです。

江戸前寿司 (wikipedia.com)

金井さんは、「馬鹿げている。」と思ったそうです。「アメリカ人が魚を生で食べるはずがない。」と考えたのです。しかしながらゴールドバーグ氏は、ユダヤ人やイタリア、スペインなどの地中海や南ヨーロッパの人々、そしてそれらの地域にルーツのあるアメリカ人は、ゲフィルテ・フィッシュ(ユダヤ教徒の伝統的魚料理)やキャビア、魚卵、イカ、タコ、タパス(スペインの小皿料理)など、似たような珍味を楽しんでいることを、金井さんに教えました。しかしながら、寿司に熱くなるゴールドバーグ氏を尻目に、金井さんの頭の中は、冷凍マグロの切り身と同じくらい冷めきっていました。

ゴールドバーグ氏は、よく知られた商品ならば、マーケットに定着した途端に誰かに真似られることは必至であることを主張しました。ビジネスでは珍しいことではありません。しかしながら、日本の食文化の象徴ともいえる寿司であれば、アメリカではその食文化を知っている人がほとんどいないので、真似ることは難しく、そういう意味でも、ビジネスチャンスとしては理想的だと言うのです。さらに、成功を目指すには、まだ誰も手をつけていない分野に乗り出す必要がある、というわけです。

寿司を手がける上で、当時のアメリカの社会状況は好条件でもありました。アメリカの伝統に幻滅し、古い文化慣習に反発した若者は、新しい答えを「東洋」に求めるようになりました。マクロビオティックスや豆腐、オルタナティブな精神世界の追求や禅にいたるまで、人々の関心は東洋に集まっていました。また、フォルクスワーゲンやホンダ、ダットサンといった車は、大量のガソリンを要する燃費の悪いアメリカ車を上回る時代に入っていました。そういう意味でも、寿司に賭けるには、魅惑的な環境が整っていました。

3日間に渡り、二人は徹底的にアイデアを出し合い、議論しました。何をどこから始めるか、どのように事業に乗り出すか、店のサイズ、提供する寿司は握り寿司か巻き寿司か、魚を卸す信頼できる業者はどこかなど、多くが話し合われました。その結果、寿司を口にする客自身が、新鮮な寿司が握られる様子を見ることのできる、カウンターのある小規模なスタイルが理想的だという結論に至りました。また、寿司文化に関わるその他の必要物は、MTCが担当することになり、また、寿司を作り提供するための人材の確保もMTCが行うことになりました。金井さんは、リトル東京のレストラン「川福」オーナーのナカジマ氏に声を掛けました。金井さんがナカジマ氏に提出した魅惑的な企画書からは、ゴールドバーグ氏のビジネス哲学の影響が見られました。

「東京で爆発的な人気を誇る寿司は、リトル東京でも同じ人気を勝ち取るでしょう。リトル東京には寿司の価値を知る人々がすでにいるので、成功は目に見えています!」と金井さんは語りかけました。しかし、ナカジマ氏は、「寿司がアメリカで成功するはずがない。」という疑念を払うことはできなかったそうです。

「2ヶ月間、ナカジマさんに頼み続けましたよ。」と、金井さんは当時を思い返して語ってくれた。「2、3週間に1度は必ず彼の店へ行き、同じ話を繰り返しました。」そしてついに、ナカジマさんは、金井さんのオファーを受け入れ、小さなスシ・バーをオープンすることにしたのです。

川福 (写真提供:金井アツコ、共同貿易株式会社)

その2>>

注釈:

1. 共同貿易株式会社(MTC)は、ニューヨークをはじめ全米各地に支部を構える。MTCが掲げる理念は、「日本食貿易のパイオニア、グローバルな流行仕掛人として最高級の日本食サービスを行う。日本の味覚を世界へ届ける。」である。MTCウェブサイト参照:詳しくは、MTCのウェブサイト参照:www.lamtc.com

2. MTCはコウ・ホシザキ氏の父、星崎定五郎氏よって1926年に創設。

3. ホシザキ氏との個人的インタビューより。また、JBA News (2004年9月)参照。

*この記事は、イースト・サン・ガブリエル・バレー日系コミュニティセンターの月刊誌「Newsette」に2009年1月掲載されたものです。

© 2009 Edward Moreno

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執筆者について

現在91歳のエド・モレノ氏は、テレビ、新聞や雑誌などの報道関係でおよそ70年のキャリアを積み、作家、編集者、翻訳者として数々の賞を受賞してきました。彼が日本文化に傾倒するようになったのは1951年で、その熱は一向に冷める気配を見せません。現在モレノ氏は、カリフォルニア、ウェストコビナ地区のイースト・サン・ガブリエル・バレー日系コミュニティセンター(East San Gabriel Valley Japanese Community Center)の月刊誌「Newsette」で、日本や日系文化、歴史についてのコラムを連載しています。モレノ氏による記事のいくつかは、東京発の雑誌、「The East」にも掲載されています。

(2012年3月 更新)

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