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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《ロサンゼルス編》

第4回 日本語放送界の第一人者、河辺照男

日本語放送界の第一人者として9年間、米国で活躍した河辺照男

ロサンゼルスの日本語放送史を語る上において欠かすことのできない人物がいる。それは1929年から約9年間アメリカに滞在し、いろいろな番組でアナウンサーを務めた河辺照男である。しかし、当時を知る人でも河辺照男と言われてもピンとくる人はほとんどいないと思われる。というのも公の場では本名の河辺ではなく、前田照男、前田輝男、あるいは国本輝堂の名前を使っていたためである。

まずは河辺の略歴を紹介しよう。1899年(明治32年)に大分県で生まれ、日本大学の学生時代に国本輝堂の名前で「熱心なる与太弁士」と自称し、青山館で無声映画の弁士としてデビューした。その後赤坂帝国館、新宿武蔵野館、丸の内邦楽座などで洋画専門の弁士として活動した。神田の東洋キネマでは徳川夢声、大辻司郎、松田翠声といった人気弁士と肩を並べて出演した。その傍ら映画製作にも乗り出し、『落ち葉の唄』の原作や、前田映画製作所による『歩み疲れて』と『青春序曲』への出演・制作を担当した。

1935年7月5日付の『ユタ日報』に掲載された映画と筑前琵琶の会の広告。國本堂輝は文學士として紹介されている。

1929年4月に帝国通信社特派員前田照男として渡米。ロサンゼルス到着直後に羅府新報を訪問し、弁士の国本輝堂であることを明かしながら、渡米の目的は南カリフォルニア大学で映画技術を学ぶことと語っている。

30年8月に羅府新報の記者になり前田輝男と称し、同紙主催の映画会では弁士として活躍した。32年8月には羅府日米に移籍し、36年9月からは新世界新聞社南加総支社で記者を務めた。その後間もなく渡米当初に使用していた前田照男を再び名乗るようになった。

富士館の広告には、「説明の光榮者、文學士」として出ている(『羅府新報』1929年9月15日)

本職の映画については自作の『歩み疲れて』を1929年8月に富士館で上映しアメリカでの弁士デビューをした。34年には邦画上映専門の富士館の専属弁士になるが、翌年4月からは同館で上映される映画がすべてトーキーとなりお払い箱となった。その後は中西部各地での巡業上映会で弁士稼業を続けた。

映画製作については、『悩ましき頃』(1929年、脚色・出演)、一世と二世が共同で制作したアメリカ初の日本語トーキー映画『地軸を廻す力』(1930年、脚本)、新作映画(1935年、監督)、聖林映画研究会の『伸び行く二世』(1936年4月撮影開始)への関与が確認されている。

さて、本題の日本語放送であるが、河辺のラジオ経歴は次の通りである。1930年に開始された河内一正が主宰する「日本人放送局」で、6月に映画物語で初登場した後、神田効一の後を継いでアナウンサーとなった。その後、31年12月から始まった羅府日本人会放送および32年2月の歯科医ドクター・コーエン主宰の杉町みよし(ソプラノ)の独唱番組のアナウンスを担当した。同年9月に開始された日本文化放送協会では放送経験者として協会幹部となりアナウンスに加えて、映画物語、ラジオドラマ(出演、演出)、広告宣伝に積極的に取り組み、主宰者の片腕として放送協会の屋台骨を支えた。

河辺照男の紹介記事(『羅府新報』1929年4月7日)

このように日本語放送黎明期(れいめいき)からの生き字引と言える存在であった。ちなみに1936年4月に公募ラジオドラマの制作を担当した時に初めて河辺照男の名前を使用した。多くのリスナーにとっては新顔登場と思われたかもしれない。

「前田君は白面の優男、新聞記者もやり、歯切れのいい江戸弁で放送にはもってこいの快弁、その調子はなお人々の耳に残っているはずだ」(藤岡紫朗『歩みの跡 北米大陸日本人開拓物語』)と日本語放送界で引っ張りだこであった理由がうかがい知れる。ちなみに、無声映画の弁士が日本語放送のアナウンサーになる例は、ブラジルやカナダでも見られる。

このように在留邦人社会におけるラジオや映画の分野で大きな足跡を残した河辺であったが、1938年に帰国することとなった。日本では母校の日本大学で映画技術を教えるとされたが、映画雑誌への寄稿を除き、帰国後の動静はほとんど伝えられていない。

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*本稿は、『日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋で、『羅府新報』(2021年4月27日)からの転載です。

 

© 2022 Tetuya Hirahara

Japanese language Los Angeles radio Teruo Kawabe

このシリーズについて

1921年にいち早く商業ラジオ放送を始めたロサンゼルスでは、1930年から定期的な日本語ラジオ放送が始まった。シアトル編に続き、今シリーズでは戦前ロサンゼルス地域での日本語放送の歴史を全5回に分けてたどる。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、『羅府新報』からの転載です。

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シリーズ「日本時間 ~日本語ラジオ放送史~」