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日系(ニッケイ)—をめぐって

第15回 一世への挽歌 — 野本一平を読む

いつだったか、ロサンゼルスのリトルトーキョーで日本人の経営するジャズバーにふらりとひとりで入ったとき、常連らしき現地の日本人と話す機会があった。長年現地で暮らすその人は、旅の途中の私に現地の日本人のことをあれこれ教えてくれた中で、「いろいろ事情があって、日本にいられなくなりこちらに来た人もいますよ」と、言った。

野本一平氏の著作

先日、1990年に出版された野本一平著の「亜米利加日系畸人伝」(彌生書房)を読んでこの人の言葉を思い出した。バーでの話にあがった日本人からはずっと時代を遡ることになるが、同書に登場する、日本からアメリカに渡った一世の人生をたどると、「なるほどいろいろ事情があってのことだったんだ」と、しみじみ感じたからだ。

野本一平の名前は知っていたが、著作を読むのは今回が初めてだった。自然体で穏やかで、理知的な文章は、その人となりが想像できるが、彼に対する人物評を読むと果たしてその通りで、「文は人なり」を地でいっていた人のようである。

カリフォルニア在住で、現地の邦人紙「羅府新報」に寄稿していた氏は、2021年2月27日、88歳で生涯を閉じた。訃報の際の追悼の記事と本書の奥付のプロフィールから、氏の足跡を以下まとめてみる。

野本一平(本名・乗元恵三)氏は、1932(昭和7)年、岩手県前沢町(現・奥州市)の寺に生まれ、京都の龍谷大学文学部を卒業。武蔵野女子学院教諭を経て、1962年米国仏教70周年を祝う僧侶代表団の一人として初めて米国を訪れた。65年ロサンゼルスの小東京(リトルトーキョー)の西本願寺別院の開教使となり、76年に中部カリフォルニアフレスノ別院に転勤した。

野本一平のペンネームで、著述家として活躍。米国に暮らす日本人、日系人についての評伝やエッセイなどを出版した。65歳で米国仏教団を退職後は、サンフランシスコの邦人紙北米毎日の社長を務め、2010年には、米国での日本語教育の推進と日本人の福祉に尽力した功績によって日本国より旭日双光章を受賞した。


一世の人生に光をあてる

羅府新報の記事にもあるように、野本氏は自分自身がアメリカに渡った一世ということもあるのだろう、同じアメリカに暮らす日本人の視点に立って、同胞の人生に光をあてその人物像と人生を描いている。とくに、それほど注目されてきたわけでもない人のことを紹介しようとしてきた。

しかし、それがことのほか興味をそそられる。というのも、氏が興味をもって取り上げるのは、ほとんどが一世の人たちである。どんな人生にもドラマがあるのはもちろんだが、一世は、日本からアメリカへ渡るという、いわば冒険にも似た人生を誰もが歩んでいる。渡米に際しては、野望、逃避、困窮など、人によってさまざまな事情があり、まさに人生の一大転機であったことは間違いない。

単に成功や失敗などでは言い表わせない複雑な思いで異土に身を埋めた人生があったのだろうことは推測がつく。そうした一世のさまざまな人生を丁寧に掬い集めたのが「亜米利加日系畸人伝」である。


明治の日本人

本書は、20世紀の初頭から前半にかけ、日本からアメリカに渡った12人についての評伝で、12人に共通するのは、いずれも明治生まれで、祖国から遠く離れたアメリカで生き、そして最期を迎えていることだ。

なかには、野口英世のような著名人もいるが、ほとんどは祖国では名を成すことはない人たちだった。また、野口についても、よく知られる学者としての成功譚ではなく、きわめて人間臭い側面を描くなど、どれも生き方や内面に踏み込んでいる。

たとえば、富田幸次郎という人物。ボストン美術館でキュレーターの職にあった富田は、ここで明治時代に東洋部長として貢献していた岡倉天心の弟子であり、その薫陶を受けた最後のひとりだ。実直で控えめな人生を送った古風な明治人である。

下山逸蒼は、「放浪の日系俳人」として紹介されている。盛岡出身で、国粋的な結社にいたという下山は、将来は立身出世して代議士になるといって渡米したが、アメリカではカリフォルニア内を転々と放浪し、生涯を自由律の俳人として終えた。

農園、魚屋、缶詰工場などで働きながら、ひたすら句を作ることに情熱をそそいだ。俳句結社をつくり、同人たちの指導にあたった。人妻との恋愛、そして失恋、後年は病苦との闘った。その難儀な人生を同情のまなざしをもって野本氏は丁寧に追っている。

戦前から戦後にかけてジャーナリズムの世界で活躍した坂井米夫は「最後の一世記者」として登場する。戦前からヨーロッパ、北アフリカ、アジアなどをまわり、改造社から「ヴァガボンド通信」を出版した坂井は、スペイン市民戦争を現地で取材したただ一人の日本人記者でもある。

同じくジャーナリズムとの関係では、藤井寮一や藤井整がいる。藤井寮一は、日本で牧師だったが、渡米後アメリカ共産党に入党し、やがて党と決別して戦後シカゴで邦人紙「シカゴ新報」を立ち上げた。

藤井整は、1931年に創刊した「加州毎日新聞」の社長兼主筆を務めるなど、新聞人として、また日系社会の指導者として辣腕をふるった。しかし、個人的には陰の部分もあった。妻子を日本に残したままで、一度も日本に帰ることもなかったからだ。そのいきさつにも著者は触れている。

妻子を日本に残したという点では、コロラド州デンバーで生涯を終えた、浄土真宗西本願寺派の僧侶、玉井好孝も同様だった。ひたすら同胞のために尽くし、慈悲深く、日系社会から慕われてきた玉井だが、妻子は渡米時に日本に残したままだった。そして妻は精神を病み、長男は戦死する。妻子について一切語ることのなかった玉井の心中を察する著者の筆致は、重く静かだ。

ジョー・コイデは、渡米後アメリカ共産党員として、祖国日本の革命工作に関わり、また、戦時中アメリカ政府の諜報要員として、日本を降伏させる諜報活動についていた。彼は自分の身分を隠すために、鵜飼信道という本名を捨てて、実在した小出禎二なる人物になり代わり、ジョー・コイデと名乗り生涯を終えた。その数奇な人生が紹介されている。

あとがきで、野本一平氏はこう書いている。

「彼らはいわゆる理想的な生き方などしてはいない。わざわざ廻り道をしたり、つまづいたり、曲折した道を、それでも生命を燃焼しつづけ、せい一杯、人生を生き通している。彼らを『畸人』と呼ぶゆえんである。この拙文は彼らに捧げる私の挽歌でもある」。

 

 

© 2022 Ryusuke Kawai

California Ippei Nomoto Issei United States

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。