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クスコの日系ファミリー

サクサイウアマン(Sacsayhuamán - クスコ市内にある14世紀の要塞遺跡)、1941年。左側:日本人移住者のミキオ本橋氏、右側:クスコ出身の友人、名前は不明(家族写真アーカイブ)

ペルーに到着した初期の日本人移住者は、太平洋沿岸地方の農家で働く契約労働者だった。両国の取決めで定住ではなく一時的滞在の就労が目的であった。

しかし移民の世界ではよく起きることだが、現実は予想以上に厳しいものだった。契約終了後もしくは過酷な労働に耐えかね、ほとんどの日本人労働者は地方の農場から首都リマに移り商業に従事するようになった。

ペルー国内の他の県に転住したものもいる。チャレンジ精神の強い一部の日本人は、アマゾン流域のジャングルや山岳地帯のクスコに転住した。その一人が当時アレキパ県に住んでいたミチカ・カワムラ氏である。彼はインカ帝国の所在地クスコに転住し、家族経営の店を始めた。


日本人会長職を最後まで全うした祖父 

ミチカ・カワムラはクスコに定住し、そこで家庭を設けた(所有:家族写真アーカイブ)

クスコに根を下ろしたミチカ・カワムラ氏は、この地で家庭を築き、自らの店を経営し、クスコの日本人会会長としてコミュニティーの活動を担った。

現在、地元の観光ガイド兼作家である孫のエンリケ・カワムラ氏は、祖父の思い出や功績の資料を収集し、記録にしている。

ミチカがクスコに到着したのは第二次世界大戦開始前の年だった。開戦後日本人は「敵性外国人」とみなされたため、当局から逃れためには隠れるしかなかった。孫の話によると、ミチカは「険しい未開のジャングル」に避難したという。これは1941年の出来事である。

暗い戦争のトンネルを抜けたミチカはそのままクスコに留まり、畑を耕し、亡くなるまで生涯そこで過ごした。

ミチカがクスコに来たのは仕事のためだった。別の場所に転住することもできたが、なぜクスコに定着したのか、何に魅せられたのだろうか。

孫のエンリケによると、その理由はクスコへ定住を決めたほかの人と同じだろうという。「クスコは神秘なところで、誰をも魅了する要素があり、誰もがこの街を愛するようになる」。彼の祖父も間違いなく、その魅力にひきつけられたのだろう。

クスコには、様々な人が接点を持てる社会環境があり、大都会にはない自然との共存生活があるという。

「祖父は、自分の運命はこのクスコにある」と思ったのかもしれません。

しだいにミチカは、クスコを故郷と思うようになり、マルシアル(Marcial)という名前を使うようになった。だからと言って日本との絆が薄れたとか、消滅してしまったというわけではなく、むしろ強くなったと言えるのだ。

「祖父は、このクスコで日本の親善大使のような役割を果たしていた」とエンリケは振り返る。この街を訪れる日本人をもてなし、自分の家に招くこともあった。

また、地元の日本人会設立にも尽力し、長年会長職を務めた。

ミチカはとてもフレンドリーでオープンな人で、ペルーにも存在する義理人情を重要視していたと伝えられている。

繁盛した商売はアイスクリーム屋(ジェラート店)で、そこで育んだ人間関係は店の客の範囲を大きく超えていたのである。いくつかの町内会や町事業団体にも所属し、地元アーティスト、映画関係者や有名な写真家マルティン・チャンビ氏ともお付き合いをしていたと言う。

また、釣りが大好きだったようで、よく近くの湖や沼、そしてビルカノタ川にも行っていたようだ。

生涯現役で、高齢になっても日本人会や地元の文化活動に関わり、1996年に亡くなるまでクスコ日本人会の名誉会長を務めた。
 

バラバラのパズルを繋ぐ作業

エンリカ・カワムラとのズームインタビュー

孫のエンリケは、クスコの日本人移民史をもっと調べ、何とかしてその記録や証言を保存したいと考えている。

現在、もう一人の日系仲間、造形作家のハルミ末永氏と共にクスコの初期の日本人家族の写真集出版を計画している。カワムラ家や末永家に関する様々な写真を紹介するつもりだそうだ。

友人や親戚、ソーシャルメディアや新聞等を通じてこの企画への協力を呼びかけ、多くの写真を集めることができた。コロナ禍によって一時中断したとはいえ、今年の終わり頃にはこの写真集が刊行できると期待されている。

カワムラ家と、自動車業界で60年以上の実績を誇っている末永家以外にも、マチュピチュの初代村長で先駆者の野内家、写真家ファミリーの西山家、イヌガイ家、大村家、本橋家、岩城家等の写真も掲載されることになっている。

また、クスコの日本人移住者及び子孫である日系人のことをもっと理解してもらうために、写真は時系列に並べ、それぞれの写真に注釈を付ける予定だという。

すでにクスコから離れてしまった家族の子孫が、現在どこに居住しているのか把握できなかったため、すべての世帯の家族写真を得ることはできなった。しかし、反応は良く、「幸運が我々に微笑んでいる」とエンリケ氏がいうように、たくさんの資料と多くの日系人の支援を得ることができた。

現在は、資料の収集を終えて、写真のデジタル化に取り組んでいる。 

エンリケ氏はこの事業には「大きな責任」があると指摘する。なぜならこの事業には二つの大きな目的があり、一つは日本人パイオニア、即ち移住者一世に対する功績を再認識すること、もう一つは次世代の日系人に先祖の移住の証を伝えることだからだ。

「とてもいい内容のものになってきている」と彼は嬉しそうに話してくれた。

この調査では多くの発見と喜びがあった。例えば、他の日系の家族写真に自分の親戚や祖父ミチカが写っていたことである。

祖父の娘、つまりエンリケの叔母も見たこともない父の写真を見て、とてもびっくりしたという。

今回のプロジェクトを通して、これまで繋がっていなかったものがつながり、嬉しい偶然がたくさん存在することに気づいた。

「混乱の中に一定の秩序があるようだ。調和を保ちながら繋がっていくので、これは素晴らしいことだ」とエンリケは嬉しさを隠せないでいる。

エンリケとハルミは写真集の発行を待つことなく、このプロジェクトをすることにより多くの喜びをすでに実感している。「これは調査というより、予期しないことを発見する作業である。こうした発見は我々にとって喜びの連続である」と彼は主張している。

このようなアドベンチャーになぜ挑戦したのでしょうか?

二人とも先祖の生き様や継承されてきた日本の文化に大変大きな関心を示していた。ハルミは自分の芸術作品にその気持ちを込め、エンリケは自分のエッセイや小説になんらかの形でそれを反映させようとしてきた。。

「自分の本能的なモチベーションに沿って行動してきたが、もしかたら自分たちのDNAと関連しているのかも知れない。我々にそうしてほしいと願う先祖の声が聞こえる気がする」とエンリケは言う。

エンリケは以前から日本の文化に魅了されていた。千年以上も前から伝わるその精神性や伝統はすごいと思っているのだ。

彼は日本に8年間出稼ぎ就労者として滞在したが、祖父の国と密接に関係した今の写真集事業は、研究者としての新たなステップである。このまま順調に進めば、年末には一つの作品としてたくさんの家族史や物語、そして絆が明るみになるだろう。

 

© 2022 Enrique Higa Sakuda

Cuzco Enrique Kawamura family family photographs Harumi Suenaga michika Kawamura Peru