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海外の日本語ラジオ放送の研究を続ける平原哲也さん

北京放送やモスクワ放送から中南米諸国のラジオ放送へ

平原哲也さん

遡ること40年以上前、日本の深夜放送が終了した後、朝方近くに「北京放送」という日本語のラジオ放送が流れてきたことを筆者は思い出す。今回、話を伺った日本在住の平原哲也さんは、1970年から海外からの短波放送による日本語の番組を受信することに熱中し、モスクワ放送や北京放送などの日本語番組に始まり、さらに中南米諸国からの放送にも興味を持って聞くようになったと話す。

「当時はインターネットもありませんでしたし、現地のオンタイムの様子やそこで流行っている音楽を聴くにはラジオ放送は最適でした。中でも中南米では民間の放送局が運営していたので出力が小さかったため、私は親に買ってもらった受信機で受信に挑戦する楽しみもありました」。

現地向けのコマーシャルも平原さんの興味の対象だった。「将来、現地に旅行した際には、コマーシャルで聞いたレストランやホテルを訪ね、宣伝されていたビールを飲みたいと想像力を膨らませました。また、ペルーのラジオでは味の素のコマーシャルが流れていたことも面白かったです」。

平原さんが大学でスペイン語を専攻した理由の一つが、ラジオを通じて中南米に魅せられたことだそうだ。そして、卒業旅行ではメキシコからペルーまで2カ月をかけて国々を巡った。1980年のことだった。

「実際に現地に足を運び、中南米は非常に貧富の差が激しいという印象を強く受けました。そのことは目の当たりにしないと分からなかったことです。非常に衝撃的でした。ラジオからは決してその貧富の差という実情は伝わってきませんでした」。

その後、電力会社に入社した平原さんは、何度も出張で中南米に出かけた。「ずっと仕事中心の人生でしたが、その途中から中南米の日本語ラジオ放送の研究を始めました。調査のためにブラジルを訪問した際には、昔の(日本語)ラジオ番組のアナウンサーに実際にお目にかかりました。私がいろいろと当時のことに関して質問をしても『かなり昔のことなので記憶が薄れてしまっている。あなた(平原さん)の方がよく知っている』と言われたこともあります(笑)」。

サンパウロの日本語放送「ラジオ・ニッケイ」のアナウンサーパウロ宮城さんと共に(2002年)。

また、調査に深くはまり込んだきっかけとして以下のようなエピソードを紹介してくれた。

「もう20年以上も前、2000年のことになりますが、知り合いから誘われて、熱心なラジオファンの集まりであるアジア放送研究会が主催するラジオ放送に関する研修会に参加しました。その時のアジェンダの一つとして、世界各地で行われている地元向け日本語放送の現状を紹介する講演がありました。そこで配られた資料の一つにブラジルの日本語放送の簡単な歴史が書かれた記事がありました。ひそかに自分は中南米の放送事情は誰よりもよく知っていると思っていたのですが、配布された記事の存在すら知らず、『え、こんな資料があるのか』とその時に受けた衝撃は忘れられません。探せばもっと面白い資料があるはずと思ったのが運の尽き、泥沼の世界にはまり込んでいきました。実際、まだだれも手を付けていない宝の山を見つけることができました」。

テレビの衛星放送、そしてインターネットの時代へ

こうして平原さんは、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアのそれぞれの日本語ラジオについて調査研究を続けた。特に印象的な国の番組について聞くと、「ブラジルの番組は早朝に放送されていました。その理由は2つあって、日系人には農家や農産物市場の従事者が多く朝が早かったこと。もう1つは、(現地の主要言語である)ポルトガル語の放送の間に日本語放送が挟まってしまうと、それまで放送を聞いていた現地の人々が他の放送局にダイヤルを回してしまう恐れがあったので、早朝に日本語の番組を放送し、それが終わってから通常のポルトガル語放送を開始する方が放送局としては都合が良かったのです」と答えた。

さらに印象的だった日本語ラジオ番組について次のように振り返った。

「ブラジルにはかつて『日系プログラマ』という人気のラジオ番組がありました。日本時間の土曜の夜に2時間かけて放送されていました。内容は日本の演歌中心の音楽番組でしたね。そして司会は日系二世のアナウンサーの丹治さん、その相手にアデマールさんというブラジル人の放送局長さんが出演していたことが印象的でした。なぜなら、以前、日系人の商店で働いていたというアデマールさんが、『アデマールさん(自分こと)、少しぼけたね。かぼちゃの頭』だとか『もしもし亀よ、亀さんよ』などの日本語を話していたからです」。

しかし、中南米で多くの日系人に愛された日本語ラジオ放送は、今やブラジルにポルトガルとのバイリンガル放送が1番組残るのみとなってしまった。

「日系人の世代が4世、5世と進んでしまい、日本語の情報を必要とする人々の比率が少なくなっていることと併せて、90年代にテレビでNHKの衛星放送が始まると、日本のことを知りたいと思う人々がテレビに移行してしまったことが(日本語ラジオが廃れた)大きな要因です。さらにインターネットの発達によって手軽に日本語の情報を入手できるようになりました。よって現実的な問題として、日本語ラジオはスポンサー獲得に苦労するようになったのです」。

ハワイの戦前の日本語ラジオについて執筆中

アメリカの日本語ラジオ放送の特徴的な流れとして、平原さんは「キャンパスラジオ」について触れた。「キャンパスラジオは大学がラジオ局を運営するというもので、90年代以降、全米各地の大学に在籍中の日本人留学生が日本語で出演することが増えてきました」。

2022年現在、北米ではカナダのトロントとバンクーバーで日本語ラジオ放送が残っている他、米国内ではイリノイ州で日本人の大学の教員がキャンパスラジオで日本語放送を続けている。そして、ハワイ州公認の日本語ラジオ局KZOOは現在も24時間放送と、日本語ラジオが衰退している中、例外的な存在と言えそうだ。

こうして研究に従事してきた平原さんは、これまでに『日本時間 ブラジル編』『日本時間 中南米諸国編』『日本時間 ペルー編』そして『日本時間 北米諸国編』という4冊の自費出版の著書を上梓している。さらに今は、ハワイの日本語ラジオ放送の戦前編に取り組んでいると話す。海外の日本語ラジオ放送の研究は、まさに平原さんにとってのライフワークだと表現する。

「ラジオ放送は録音が残っていないものが多いので、調査はとても困難です。放送が終了してしまえば消えてしまう物だからです。一方で海外の邦字新聞は物自体が残っている場合が多く、調べることができます。ですから私が日本語ラジオについて調べる際には、国会図書館や海外の大学図書館などが所蔵する邦字新聞から調べることが多いです。問題は日本語ラジオ番組が存在していたことは分かっても、実際の音を聞けるところまではたどり着けないケースが少なくないことですね。さらに、私自身の意識として欠けているのが、日系社会における現地の日本語放送の意義について掘り下げられていないということです。どなたかこの点についてさらに深く研究してくれる方が現れてくれないだろうか、と思っています」。

平原さんの『日本時間 ハワイ戦前編』は2022年の年末までの完成を目指して執筆が進められている。

 

*平原さんのウェブサイト:日本時間 - 日系社会向けのラジオ番組 (日本語放送史)

 

© 2022 Keiko Fukuda

Japanese language radio Japan Hour nihon jikan pre-war researcher tetsuya hirahara