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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/6/10/9138/

第9回 続・ウラジオストク、日系の足跡

1910年代のスヴェトランスカヤ通りを歩く着物姿の女性(『ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの』(堀江満智著)より)

日本に一番近いヨーロッパ

ロシアの極東の港湾都市、ウラジオストクに明治から昭和の初期にかけて形成された日本人の居留地のことについて前回(第8回)で触れたが、こうした歴史的な事実とは別に、近年ウラジオストクは、観光地としても日本から注目されていた。

改めて調べてみると、ウラジオストクの魅力を紹介するウェブ上のサイトもいくつか見つかった。そのなかでYouTube「ウラジオストクチャンネル」は、ウラジオストクの魅力を整理して伝えている。「ウラジオストクを旅する43の理由」(2019年、朝日新聞出版)などの著書がある中村正人氏が解説する。

成田空港から2時間半で行けることやシベリア鉄道の起点であることから、「日本に一番近いヨーロッパの町」であること、そして人気の理由として以下の7つのポイントをあげている。

  1. 日本海に面した港町
  2. ヨーロッパの街並み
  3. グルメの町
  4. 夏はビーチで遊べる
  5. 郊外に広がる大自然
  6. 1年を通して豊富なイベントがある
  7. バレエとアートの町

日本海の向こうの極東ロシアの町というと、極寒というイメージもあるが、地図をみると北緯43度に位置し、北海道の小樽とほぼ同緯度であることがわかる。

7つ目の「バレエとアートの町」という点では、バレエやオペラの有名劇場があり、日本人のダンサーも所属していること、さらに、ウラジオストクが日本のバレエ会と歴史的につながりがあることに中村さんは言及する。

どういうことかというと、日本バレエ協会の初代会長をつとめた服部智恵子氏のルーツがウラジオストクだったのだ。彼女は1908(明治41)年、ウラジオストクで貿易商である日本人の父とロシア人の母のもとに生まれ育ち、サントペテルブルクでバレエを学んだ。しかし、ロシア革命(1917年)によって服部家は財産を失ったことで帰国し、以後日本で活躍した。

彼女が生まれたのは、日露戦争から4年後のことで、このころすでに日露関係は正常化され、戦争で途絶えていた日本人のウラジオストクへの入国も許可された。また、日本人学校も再開されるなど日本人のウラジオストクでの活動は活発化した。

これは推測の域をでないが、服部家のように、日本人とロシア人が結ばれ、智恵子氏のように2世が誕生する家庭も少なからずあったのではないか。さらにいえば、1937年に日本人が完全にウラジオストクから引き揚げたといわれる一方で、現地にとどまった2世、3世の日系のロシア人の存在もあったのではないか。

そう思わせるほど一時期のウラジオストクは、日本人がビジネスだけでなく暮らしの場として根をおろしてた自分たちの町だった。


77年の歴史のなかで

前回紹介した「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860〜1937年」(ゾーヤ・モルグン著 藤本和貴夫訳」(東京堂出版、2016年)をはじめ「ウラジオストクの日本人街 明治・大正時代の日露民衆交流が語るもの」(堀江満智著、ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会企画・編集、東洋書店、2005年)、「ウラジオストク物語 ロシアとアジアが交わる街」(原暉之著、三省堂、1998年)を参考に、ウラジオストクにおける日本人の足跡をたどってみる。

1860年、ロシアは清国との北京条約でアムール川左岸を領土として手に入れると、この地方の開拓を進め、ウラジオストクの町を建設した。するとこの地域の将来性に注目して、ロシアだけでなく外国の商人も商会を開設し、日本からもまた長崎をはじめ各地から商店が店を開いた。これらの商店は、塩、白米、麦粉などの食料品から、絹織物、家具、食器などの商いをした。

また、個人の力で理髪店や写真店などサービス業をはじめるものもいた。こうした日本人居留民は大半が家族づれで、そのため子どもの人口も増えたという。

1894年には日本人小学校ができ1902年には50人の生徒が学んでいた。現地に根をおろした日本人によって日本人居留民会などいくつかの組織も誕生した。日露戦争によって一時は停止したビジネスもまもなく元の姿を取り戻し、日本人社会は再び活況を呈し、ロシア人や他国の人間との関係もうまく行っていたようだ。

当時のウラジオストクの暮らしについて、「ウラジオストクの日本人街」の著者は、「……日本人は日本と変わらぬ暮らしができ、またキタイスカヤ(中国)街、カレースカヤ(朝鮮)街などの名称はあるが、全体に人種国籍などあまり関係ない共存共栄の暮らしがあったのではないだろうか。……」と記している。

こうした居留民社会を瓦解に導いたのは、1917年のロシア革命とこれに干渉しシベリアでの利権を得ようとして翌年日本が行った「シベリア出兵」だった。日本軍はウラジオストクに上陸して進軍したが結局失敗に終わり、1922年になってようやく撤退した。

この結果、残されたウラジオストクの日本人社会が被った損害は大きく、活動は縮小され徐々に日本人は日本へ引き揚げていった。ピーク時には5000人以上いた日本人は1920年代末で約500人となった。さらに1931年の満州事変で、日ソ関係は急速に悪化し、ウラジオストクの日本人小学校は閉鎖された。

1931年に浦潮(ウラジオ)本願寺の住職になった戸泉賢龍氏の妻、米子さんによると、当時の情勢では、ロシア人にとって外国人と接触することは逮捕されることを意味したという。日本人と接触することがスパイとみられることがあった。

1936年に日本とドイツの間で国際共産主義やソ連に対する牽制のための日独防共協定が結ばれると、日本人はウラジオストクを離れなければならなくなった。「1937年6月10日には、ウラジオストクにはほんの数人の日本人しか残っていなかった」、「女性は全部で7人いた」、そして「総領事館員を除く全日本人がウラジオストクから退去」と、ゾーヤ・モルグンの著書にある。

また、この最後の日本人のなかに、ソビエト市民の妻となった女性2人のことが記されている。1人は戸泉米子さんの叔母の箭竹ヤスさんで、もう一人はモリエ・ユキという女性だった。そして箭竹さんについては出国したことが知られているが、「モリエの運命は不明である」としている。

この二人に子供がいたのかどうかわからないが、同じようにソビエト市民の妻あるいは夫となった人はいなかったのか、さらに日本人であることを知られずにその後、現地周辺にとどまった人はいなかったのか、という疑問は残る。

1860年ごろから1937年のおよそ77年の間だけに存在したウラジオストクの日本人居留民だが、その流れをくむ次の世代あるいはその後の世代の日系の人が、どこかにいるのではないかという気がしてならない。 

 

© 2022 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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