ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/2/11/nikkei-wo-megutte-1/

第1回 私と「日系」

日系ってなんだろう。神奈川県で生まれ育った私が「日系」を認識したのは、いま思えば、学生時代のことだった。英会話の指導をしてくれたアメリカからの留学生が日系のアメリカ人だった。そのときは、いわゆるハーフの人という認識が先で、日系であることは気にはとめなかった。

その後、毎日新聞の記者になり静岡で5年勤務したが、この間は外国人に関わることはほとんどなく日系に関わる出来事や人にも出会わなかった。その後会社をやめてアメリカに1年滞在することになり、準備として都内の英会話学校に行ったときに、教師のなかに日本人の顔をした日本名のアメリカからの教師がいた。英語のうまい日本人とはまったく違う彼について、「日本人なのかアメリカ人なのか」と、疑問に思ったものだった。


1986年のアメリカで 

つぎの日系との出会いは、1986年から1年間アメリカで暮らしていたときだった。フロリダ州のデイトナビーチという太平洋岸の町にあるデイトナビーチ・ニュース・ジャーナルという新聞社で研修していたとき、新聞に載った私の紹介記事をみたフルタさんという高齢の日系人夫婦から夕食に招待された。

フルタさんはハワイ生まれの二世で妻は日本生まれ。フロリダでは日本人自体が珍しいようで、フルタさんは懐かしそうに私に接し、とても親切にしてくれた。ディズニーワールドのあるオーランドで暮らす日本人女性がつくる確か「さくら会」というグループからも同様の誘いをうけた。アメリカ人を夫に持つ女性たちで、夫たちも日本文化に関心があって私を招いたようだった。彼女たちはアメリカを第二の故郷と決めた人たちで、日系といえるのかもしれない。

フロリダに滞在中、ひと月ほどかけてアメリカ本土を反時計回りにぐるりと一周する旅に出た。知人の知人を頼るような貧乏旅行で、そのひとつ、ネブラスカ州のオマハでは地元の日系の方の家に泊めていただいた。実は、オマハと静岡市は姉妹都市で、私は静岡での新聞記者時代の縁で、姉妹都市の窓口になったこの日系人の方にお世話になることができた。日系アメリカ人が、日本とアメリカをつなぐ役割を担っていたことをこのとき知った。

サンフランシスコでは、毎日新聞時代の友人の紹介で毎日と関係のある北米毎日新聞社を訪れた。この時はじめてアメリカで日系コミュニティーを主たる読者としている新聞を目にした。同社の役員である年配の日系の方からは、所有するアパートの一室を「自由に使ってください。電話もあるし、お酒もどうぞ」と、恐縮するほどのもてなしをうけた。

私がメディア関係の人間だったからか、それともひとりで頼りなげに行動しているからか、そしてもちろん日本人だったからか、出会った日系の人たちはみな優しく親切だった。

フロリダ州内も車でまわったが、あるとき、かつて南フロリダにあった「Yamato Colony(大和コロニー)」と呼ばれた日本人入植地につながる「Yamato Road」なる道の存在を知った。が、当時の私は草の根のアメリカ社会を知ることを第一義としていたので日本的なものへ関心はなく、そのままにしていた。一転気持が変わってこのコロニーについて取材をしたのはずいぶんあとになってのことだ。

フロリダ南部のビーチで憩う、大和コロニーの日本人ー1919年


「ノーノー・ボーイ」を契機に

その後しばらく日系との出会いはなかったが、1990年代に入り、ある雑誌で日本の海沿いをルポしていたとき、和歌山県の美浜町で「アメリカ村」なるものの存在を知った。当地から明治時代にカナダに渡り漁業に従事した日本人が帰国して西洋風の家を建てるなどしたことからそう呼ばれ、そこは歴史的な観光地にもなっていた。この取材中、偶然カナダから先祖の墓参りに訪れたという日系カナダ人一家に出会い話をきいた。移民先のカナダでは大きな日系コミュニティーができているといっていた。

1995年、アメリカを数ヵ所回り、現地で事業を起こした“日本人”を何人か取材した。デンバーで豆腐の製造販売を手がけた元企業人、サンフランシスコで運送会社を立ち上げた奄美出身の人、会社組織と関係なく、アメリカに骨を埋める覚悟で孤軍奮闘する姿には惹かれるものがあった。自分自身もフリーランスになり組織の後ろ盾もなく活動してこともあるが、彼らの冒険にも似た生き方に共感したからだ。戦後渡米したこの人たちは、今日でいう「新一世」だろう。

その後数年して日系というものに真正面から向き合うきっかけを得た。古本屋でみつけた「ノーノー・ボーイ」という終戦直後の日系2世の若者を主人公にした本を読み、作者である日系2世のジョン・オカダと彼がテーマにした世界にひき込まれた。その結果、この本をめぐる取材をはじめ舞台となったシアトルで多くの日系人と出会い、歴史を通しての日系の物語を知ることになった。 

取材をはじめて間もなく移民や日系が、文学を含め学問の世界で研究対象になっていることや、多方面から関心を集めていることを知ると同時に、日系アメリカ人文化に関心のある人がつくる日系アメリカ人文化研究会というグループに参加し、視野を広めることができた。その一方で、かねてから気になっていたフロリダの大和コロニーの取材を深めていったのもアメリカでの日系移民社会を学ぶことにつながった。

また、取材ではシアトルの歴史ある北米報知という日本語新聞に助けられ、同時に同紙のオーナーであるトミオ・モリグチ氏と親交を深めた。2世である彼は、地元の日系スーパー「Uwajimaya」を成長させた立役者で、私は同家のルーツである愛媛県にも何度か訪れモリグチファミリーを取材した。

アメリカの日本語新聞との関わりは、ブラジルやアジアの日本語新聞との関係にも発展し、一時こうした新聞が取り上げた記事のいくつかを定期的に日本の読者にウェブで知らせる仕事に携わった。これらの記事を通して、ブラジルなど南米やヨーロッパ、そして南アジアにも日系でくくることのできる歴史や現在があることがわかった。

このように日系を取材しているうちに、ディスカバーニッケイとの出会いも生まれ、これまでいくつかの連載記事を書かせてもらうようになった。

以上が、私が出会った日系の概要で、そのほとんどは日系アメリカの世界である。私は日系社会や移民問題を専門に取り組んでいるわけではない。しかし、日系アメリカは、自分の取材テーマのなかでいつしか少なからぬ比重を占めるようになっていた。すると当然のことというか、日系や日系アメリカに関係する人や事柄に対する嗅覚が働くようになる。反対に、私が書いたものを読んだ人からも反応が寄せられ、新たな発見につながることもあった。

こうした作用、反作用のような知識のやりとりはおもしろいもので、次回から日系をめぐるトピックを思いつくままにとりあげてみる。

 

© 2022 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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