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第19回 瀬戸内の日本ハワイ移民資料館

大小約700もの島が点在する瀬戸内海で、山口県南東部に位置する周防大島(正式には屋代島)は3番目に大きな島だが、ここに日本ハワイ移民資料館(Museum of Japanese Emigration to Hawaii)がある。観光的には「瀬戸内のハワイ」とも呼ばれる島の資料館とはどんなものなのか、なぜここに資料館ができたのか、中国地方への旅の途中で訪ねてみた。


資料館は成功者の家

アメリカ帰りの成功者の民家を利用した資料館

国道188号から車で大島大橋を渡り島に入り、海岸沿いをしばらくすすんでから内陸に入ると案内が出ている。これを頼りにさらに長閑な田園地帯の細い道を右に左に行くと、ようやく木造二階建ての資料館にたどり着く。 

どうして、こうした入り組んだところにあるのかというと、この資料館は、もとは明治時代にこの島からアメリカに渡って成功した福元長右衛門という人が、1924(大正13)年に帰国したのちに建築した住居で、それをそのまま利用したためこの場所となったのだった。いまの金額に換算すれば推定およそ3億円をかけたとされる建物は、伝統的な日本家屋に洋式の意匠を取り入れた和洋折衷の趣がある。

周防大島からは明治時代に島をあげて多くの人がハワイへ移民、その歴史を後世に残しておくため、1999年、地元周防大島町(山口県周防大島郡)によって開館したのがこの資料館だ。

日本のアメリカ、ハワイへの移民の歴史を踏まえて、周防大島からハワイへの移民の歴史やその背景についての資料や解説をはじめ、ハワイから帰国した人たちが持ち帰った生活用品やハワイでの労働の実態を示す写真や資料が、展示の中心になっている。

移民が持ち帰った生活用具などが展示

そのほか、福元家や移民として活躍した人の功績、ハワイとの交流、現地での日本語教育について展示されている。また、映像で移民を振り返るシアタールームやペルー・ブラジルへの移民についてもコーナーが設けられている。

さらに検索コーナーがある。ここでは官約移民と私約移民とを合わせて、かつて日本からハワイに渡った約13万人分の渡航記録を調べられる。

建物のなかには、住宅として使われていた時代のタイル張りの風呂場などが保存されていて、物自体も観賞に値する。この建物と敷地内の建造物は2022年国の登録有形文化財に登録されたほどだ。

当時としてはモダンな風呂場


突出した周防大島

日本からハワイへの移民、島からの移民の歴史、そして現地の様子をとらえた移民生活の記録などを学ぶのにふさわしい、実際に移民で成功した人の住居を利用した資料館は、資料も整理され、管理も行き届いている。

山口県は広島県などとならんで、移民県として知られるが、それにしても充実した資料館がどうしてこの島の中に誕生したのか。

日本のハワイへの移民を振り返れば、ハワイと日本の二国間による制度から始まる。ハワイでは砂糖プランテーションで働く海外からの労働者を必要とし、ハワイ政府は、日本政府に対して農場労働者としての移住者を募ってほしいと強く要望していた。これに対して、農村の疲弊と人口調整の必要から日本政府はこれを受け入れ、両国間のとりきめのもとに1885年、「官約移民」というものが始まった。

同資料館によれば、この官約移民時代の1885年から1894年まで間に日本全国で約29,000人が送り出されたなかで、このうち周防大島からの移民は3913人と、全体の約13.5%にものぼった。ひとつの小さな島としては突出した数だ。

島とハワイの歴史を語る木元館長

「今は人口が15,000人ほどですが、明治のはじめは7万人ぐらいいました。当時は政治が混とんとして、また、台風など自然災害もあり島民は食べていけなかった。一方で島では出稼ぎの歴史もあり、船で外に出ていくのは当たり前。そんなとき政府から出稼ぎ(海外移民)の話があったので多くが応募した。島の人にとってはちょっと長い間、遠いところへ行くという感じではなかったでしょうか」と、資料館の木元真琴館長は言う。

しかし、それにしても生活に困窮して移民を希望するなかで、同じような条件にあった地域はほかにもたくさんあったのではないか。そこで周防大島からの移民が突出したのは理由はほかにもあるのと察せられるが、それについては木元館長は、長州出身の明治政府の政治家、井上馨の影響を示唆する。

「井上は明治維新の前に、周防大島の医師に世話になった恩義があり、それで周防大島をよくしてやろうという気持ちがあったと思われる」。官約移民への応募者が殺到するなかで周防大島の人間が優先して多く選ばれたのではないかというのである。


ハワイとの交流も

周防大島は、かつて4つの町からなっていたが、4つの町がそれぞれハワイと交流していた。こうした関係から1963(昭和38)年にはカウアイ島との間で姉妹島として縁組が締結された。その後、交換留学生の制度ができたり農業研修として若者が周防大島からカウアイ島に行ったりして、さらに交流が深まる中で移民の資料を残しておくべきだという意見が高まり、資料館の建設が実現した。

この10年ほどは3500人から4000人が訪れ、なかにはハワイから年間400人ほどが訪ねてきたこともあった。ハワイから来て自分のルーツについて興味のある人には、祖先のハワイへのかつての渡航記録をスタッフが調べて渡すと、喜んで持って帰ったという。

一方、観光のついでに訪れた人の中には、「なんでここにハワイ移民資料館なの」と、不思議に思う人も多いという。一般には「瀬戸内のハワイ」と、南国ムードに惹かれて観光目的で訪れる人が多いようだが、あらためて、島とハワイとの関係、そして日本の移民の歴史を知ることに、資料館は大きな役割を果たしている。

* * * * *

★日本ハワイ移民資料館

開館 午前9時半から午後4時半 月曜休館(月曜が祝日の時はその翌日)
入館料 大人 400円、小人200円
詳しくは同資料館(0820‐74‐4082)まで。
URL:www.towatown.jp/hawaii

 

© 2022 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。

 

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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