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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第10回(その3)『北米時事』の歴史 — 女性社員の投稿と5000号記念

前回は『北米時事』の寄稿者の様子と社員についての記事を紹介したが今回は女性社員の投稿記事と5000号記念及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたい。

女性社員の投稿記事

高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号)

高谷しか子による寄稿記事(『北米時事』1918年3月29日)

「私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望致したい事がある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油がきれては廻せないから如何に聖職である教師も御飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私達はそれに報ゆるに援助を以てしなければならないだろうと考える。

(中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。

(中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用を以て新聞記者を増し、同胞のいる場所には必ず記者をおき、現日会幹事のする仕事をさしたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。

領事の権威を以て津々浦々一人も残さず強制的にでも新聞を売りつけるようにしたら記者を置く費用は購読料から出てくる」

高谷しか子は1917年に渡米し、モンタナ駐在員として活動。渡米してまだ半年だが、自身の率直な意見として、移民地において日本人のために貢献的な役目を果たす新聞社に対する公的援助をいろいろ奇抜な具体案を上げ訴えている。

以上の記事を読むと、『北米時事』の発展は多彩な卓越した能力を有する社員一人一人の努力の結集によってもたらされたものだと強く実感した。


5000号記念

創刊から16年が経った1918年、発行5000号に達した『北米時事』は、その節目を大きく祝った。創刊時発行人だった隅元清(くまもときよし)から、会社の経営が有馬純清(すみきよ)へ引き継がれた1913年から5年後のことだ。

「5000号」(1918年3月29日号)

この日の新聞は5000号記念ということで本紙に関係記事と附録32ページが掲載され、5000号祝い一色となっていた。広告もすべてに「祝5000号」と書かれ、シアトル在住日本人をあげて祝した。

『北米時事』第5000号(1918年3月29日 )

松永領事は「『北米時事』の第5000号を祝す」として「創刊以来16年経過し、今日の盛況は本紙の経営者と従業員の普段の努力に依るもので、敬意を表する。『北米時事』は在米同胞の大多数に対し智識と慰安を供給してくれ、同胞社会の発展に極めて大きな貢献を果たした」と評した。

後にアメリカ大使となる当時サンフランシスコにいた埴原正直通商局長からの祝辞もあった。

「本紙5000号祝会」(1918年3月30日号)

「3年前、4000号の祝会を日本館で開きたる時、会衆場外にあふれて、不満足の向きも少なからず。この経験によりて、今回5000号祝会は野外において園遊会を開く事に内決。追って天候を見て期日場所その他順序を発表予定。在留同胞全部そろっての来会を希望す」

「本紙5000号運動会」(1918年4月29日号)

5000号運動会(『北米時事』1918年4月29日) 

「昨日開催した本紙5000号祝賀大運動会は朝来稀なる快晴で大成功という一語につき、本社の光栄とする処である。会場リバチー野球場はシチーリーグの発起で昨年建造せられ同胞間、多額の株を応募している縁深い会場であったが、同地開設以来、3000名もの入場者のあった事は記録を作った。(中略)

宮崎記者の司会で、有馬社長の挨拶の後、連絡日本人会松見会長は『5000号が達成できたのは社員の奮闘、力の結果だ』と『北米時事』の社員を讃えた。来賓として松永領事夫妻、高橋東洋貿易、工藤正金銀行、菊竹正金銀行、古屋政次郎、郵船香取丸戸沢船長らが訪れた。

(中略)子供から大人までの各種競技、仮装行列が行われ、特に野球大会は盛況であった。競技の合間にシアトル少年義勇軍が日米両国旗を振りかざして行進し、最後に綱引きと社員競争があり、祝賀運動会は終わった」

シアトル少年義勇軍(『北米時事』1918年4月29日)


購読料値上げ

値上広告(『北米時事』1918年4月29日)

1918年4月29日号に、それまで1カ月50仙だった購読料を翌月から60仙へ値上するという告知が掲載された。第1面掲載の「随感随筆」で「本日5000号を期して紙面を拡張したが紙代の著しい上昇、労働賃金も四五割上昇によりやむなく値上した」と説明している。50仙の購読料は創刊時からのものだった。

この頃の著しい物価上昇により同年12月1日より月間70仙となり、更に北米時事社、大北日報社共同で購読料を1919年12月1日より月間85仙とした。値上げ理由として「今後一片7仙と云ふ法外な高質の紙を使用せぬばならぬ」とある。月間購読料85仙は当時の日本円で、約1円70銭。現在に置き換えると推計1,700円ほど。この月間85仙の購読料は1940年4月1日号でも同金額だった記述が残っているので、約20年間は同額を保っていたようだ。


1万号突破

「北米時事一万号突破、記念特別出版」(1934年7月30日号)

北米時事一万号突破記事(『北米時事』1934年7月30日)

「昭和3年度を持って一時中断になっていた『北米年鑑』を復活し『西北部在留同胞住所録』を刊行し愛読者諸氏へ無料配布致す」

1934年7月2日号が10034号になり、同年5月下旬に1万号を達成したものと推測される。復活した『北米年鑑』1936年版を、この年に再渡米した2世の筆者の父、與(あたえ)は大切に保管していた。

次回は有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)


参考文献

伊藤一男 『続北米百年桜』日貿出版、1971年
伊藤一男『アメリカ春秋八十年-シアトル日系人創立三十周年記念誌-』PMC出版社、1982年
『北米報知』創刊百周年記念号、2002年秋
有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年1月1日、2月4日に掲載されたものに修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

newspaper North American Times Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。