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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第10回(その2)『北米時事』の歴史 — 広がる寄稿者の輪と社員の様子

「北米時事社社員名」(『北米時事』1918年1月1日 )

前回は『北米時事』の創刊時の様子についてお伝えしたが、今回は広がる寄稿者の輪と社員の様子についての記事を紹介したい。
 

広がる寄稿者の輪

『北米時事』が有馬家が受け継いだ後も、創業メンバーや初期の主筆らは、同紙と深くかかわっていたようだ。また、元社員の多くが、その後も各地から記事を寄稿していた。 

「北米時事社 名簿」1918年1月1日号、1919年1月1日号

1918年1月1日号及び1919年1月1日号に当時の北米時事社社員名一覧がある。この一覧を見ると、シアトル本社に20数名、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバー等に10数名、日本にも数名の社員がいた。有馬純清(すみきよ)社長は1919年には一時東京にいたようだ。1930年代には有馬純義(すみよし)が社長を受け継いでいるので、20年代のどこかで日本へ帰国したのかもしれない。

『新日本』記者だった中島梧街、また同紙創業者の山岡音高の名前が、社友として並んでいるのは興味深い。中島梧街はこの頃に多くの記事を投稿している。また、創業期に主筆を務めた初鹿野梨村が社友として、藤岡紫朗はロサンゼルス駐在として記されている。

北米時事社社員一覧(*『北米時事』1918年1月1日号及び1919年1月1日号より、筆者が作成)


主筆を退いた後の初鹿野梨村と藤岡紫朗について書かれた記事を紹介したい。

「初鹿野氏帰る」1918年9月9日号

「アラスカ・オーカキャナリーへ赴きたる初鹿野氏は、詩囊(しのう)を肥して昨日来沙」

初鹿野梨村「発するに望んで」(『北米時事』1919年4月19日)

上記の記事に対して、初鹿野梨村氏自身が1919年4月19日号「発するに望んで」として投稿記事を書いている。

「北米紙が僕の北征を『詩囊を肥やす』と書いたので知人が『独り詩囊を計りか』と揶揄(からか)ふので、僕も利かぬ気の、早速一絶を口占(こうせん)して見せたら『はヽヽ』と笑って引き下がった」

同号で初鹿野氏の書いた「一絶の詩」は筆者の勝手な解釈であるが、「アラスカの荒海の恐怖にうろたえ鴎に笑われ詩嚢を肥やすどころではなかった」という内容ではないかと推測している。からかわれた知人とはひょっとして中島梧街ではなかろうかと想像する。北米時事社創立時に二人で行った激しい筆戦の延長のようなやりとりの気配を感じる。

「初鹿野氏帰沙」1919年10月28日号

「アラスカ遠征中なりし初鹿野梨村、昨朝帰沙せるが、本年は終わり頃になって鮭群寄せ来大漁なりしと語り居たり」

初鹿野梨村はこの頃には、毎年の鮭漁獲のシーズンにアラスカへ行って、その醍醐味に人生を謳歌していたようだ。

「藤岡紫朗氏新就職」1918年2月5日号

藤岡紫朗はカリフォルニアへ渡って、農園家として活躍する一方で、『北米時事』へ寄稿していたのだろうか。1918年2月5日号によると「羅府日本人会書記長辞任後、日加農業組合幹事に就任」とある。

また、藤岡紫朗が1939年3月29日掲載の「排日法案」の寄稿の中で自身の過去の様子について、次のように語っている。

「当時(1913年頃)私は北米時事記者生活の8ヶ年を了え、志を農園方面に立てて、ヤキマへ行った。しかし事業に失敗し1年後にシアトルに帰り恥をさらしていた。それを哀れんだか、古屋、松見両氏がカリフォルニア州行を世話してくれ、私は二つ返事で服装を整え翌日直ちに出発した」


中島梧街についての記事もある。

中島梧街「シアトル総まくり」 (『北米時事』1918年1月1日)

「シアトル総まくり」1918年1月1日号

「北米日本人会の会員様にして口も八丁手も八丁、筆も合わせて二十四丁程の技術を有す。(中略)三男一女の父として模範的家庭を造る。其宰する『ホーム誌』は彼がステートホームの副産物にして家庭の人としても亦八丁の手腕あるを証す」

文筆家であると同時に、家庭を大切にする人物であったことが伺える一文だ。

社員についての記事も多彩

『北米時事』の記事には、社員の移動や家族の状況を詳細に掲載している記事も多くみられる。社員を大切にする、思いやりのある新聞社だったのだろう。

例えば、1918年1月22、28日、2月1、13日号には、濱野末太郎(はまの・すえたろう)の退職についての記事が掲載されている。同氏は親族の事業継続のためニューヨークに行くため1月末の退職となった。3年間の勤労を労うために、本社員20数名で送別会を盛大に行った。同時期に退職した広告係の平井修一郎氏の送別会も兼ねたいたようだ。濱野氏が大陸横断鉄道で出発の際には、「停車場に多数の人が見送り、数日後に無事にニューヨークに到着した」と記されている。

なお、東良三による1938年1月1日号への投稿記事によると、濱野末太郎氏はその後に南満州鉄道の東亜経済調査局の幹部となり、戦火の上海に特派された。そこで、戦後経済の組み立てを準備をする役職について活躍した。

1918年2月8日号には、永戸政治氏がサンフランシスコ『新世界』記者より入社した記事が掲載。同上の東良三の投稿記事によると、永戸政治氏はその後に『東京朝日(現・朝日新聞)』の論説覧の専属となった。

 

「木下利氏結婚披露」1918年5月6日号、「中川本社員迎妻」7月26日号

本社員木下利氏、中川丘氏が結婚し、妻が渡米した記事が掲載されている。両氏は、写真結婚により妻が渡米してきたのではと推察される。中川氏については、1919年5月17日号に男子出産の記事もある。

「本社員ピクニック」1918年7月29日号

「昨日日曜日、本社員ピクニック。プレザントビーチにピクニックを催し、山に遊び或は三々五々海辺に出て貝拾いで楽しく一日を送れり。同地にグリーンハウスを有する北山、木村両氏は我等一行の為、種々の便宜を与え大いに歓待せられ一行は満足感謝して午後7時当地発の小蒸気に乗じて帰途につきたり」

社員20数名が多忙な毎日の片時の休日に、和気あいあいと楽しい一日を過ごす様子が目に浮かぶ記事だ。

「漢口シアトル会」1919年7月21日号

「シアトル人士の漢口に在るは北京公使館に栄転せし田村貞次郎(さだじろう)(1918年北米時事社の名簿に、在漢口として記載)、郵船出張所主任蛯子磯治、住友支店支配人名村豊太郎(前住友銀行シアトル支店支配人、第4回「一日一人一いろいろ」で紹介)、茂木商会支配人酒井浩七、三菱商事会社日𠮷朝郎の諸氏及び本社漢口支店長、前本社員平井修一郎(前項「退職記事」でお伝えした本社広告係)等にてシアトル会を開き居れりと六千マイル外にて斯くシアトル出身者の落ち合えるは、広いようで狭いものなり」

1938年1月1日号、東良三投稿記事によると田村貞次郎氏は1914年頃ワシントン大学に通いながら日曜版『北米時事』の編集主任をしていたが、外交試験官試験に合格して総領事とまでなった人物。

日本郵船、住友銀行、三菱商事などは、『北米時事』の広告主であった。シアトル日本人社会の発展を支え、『北米時事』とも関わった人達がその後に中国で活躍する中、北米時事社の元社員と一緒にシアトルから遠く離れた異郷の地、漢口でシアトル会をつくり親睦を深めていたのだ。

次回は女性社員の投稿記事と5000号記念及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたい。

 (*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む。) 

参考文献

加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年。
在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年。
有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』築地書館、2005年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年1月1日に掲載されたものに修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

newspaper North American Times Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。