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2つの世界:松本若次の生涯と写真

第3回 若次のレガシー

写真22:松本若次「無題(ワイーパー)」1920年代後半~1930年代

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ルポルタージュか芸術か

若次は、個人のポートレート、パレードや文化行事などの記録写真のほか、結婚式、クラブでの式典、卒業式などの記念写真を数多く撮影した。また、かなりの数の広告写真も手掛け、軍隊の活動記録の撮影を依頼されることもあった。

若次の写真活動は多岐にわたる。例えば1929年には、全国大会で優勝した広島商業高校の野球部の凱旋を出迎える広島市民の様子を写真に収めた。1936年には、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム、広島平和記念資料館)で行われた見本市の様子を克明に記録している。また1942年には、日本占領下の満州に入植するために集められた広島商業高校の15歳から22歳の青年たちからなる満蒙開拓青少年義勇軍の壮行式の様子を撮影した。

若次は自らの目標を達成したのだ。宮武がロサンゼルスのリトル東京でやったように、若次は広島で、人々の生活、集団の活動、街のイベントを記録として写真に収めたの。

若次は、広島に住む人々の生活を記録している時も、それ以前にロサンゼルスの日系人社会の一員であった時も、芸術写真家としての精神を常に持ち続けていた。ロサンゼルスでの初期の作品は、芸術写真と記録写真とはっきり分かれる傾向があった。彼の芸術写真は、当時、主流だったピクトリアリズムというスタイルで、ソフトフォーカスで淡い色調の、情感豊かなものであった(写真19)。

写真19:松本若次「無題(家族農場)」1920 年代前半

初期の作品の中には、少数ではあるが、現代的かつ半抽象的なものもある。いずれにせよ、実用的というより、芸術として意図的に撮影されたものであった。家族経営の農場を写した、繊細で詩的なパノラマ写真は、ロサンゼルスの農場で働く日系人の生活を捉えることを意図した記録写真だった。

意識的だったかどうかにかかわらず、これらの写真は、のちに芸術的要素と記録的要素をともに持ち合わせるようになった広島での若次の写真へのアプローチを予知させるものである。彼の写真は、時に芸術性を強調し、時にルポルタージュ的に撮影する「芸術的な記録写真」と言う表現が最も適切かもしれない。

記録写真は、日本の写真界も含め、写真撮影が初めて可能になったころから行われている。19世紀半ば、旅行が高価で時間がかかり、かつ危険なものであった時代に、ヨーロッパの写真家たちは、遠方の地を写真という形で記録した。1863年から1885年頃まで日本に滞在したフェリーチェ・ベアトは、江戸時代から明治初期にかけての劇的な変化を写真に収めた。これらの写真には、人物や日本の風俗、慣習などが収められており、その多くはベアトによって丁寧に何らかの手が加えられた。それらはヨーロッパ人が異文化を描く際によく見られるように、ダーウィン以後の偏った視点で、被写体をロマンチックに、エキゾチックに表現していた1

街の雑踏を記録するのに十分なほど写真乳剤が普及したことで、世界の記録写真、特に活発な都市風景の撮影が、ますます現実味を帯びてきた。社会派の記録写真は、19世紀初頭、ジェイコブ・リースやルイス・ハインが、アメリカの悲惨な都市生活や児童労働を記録したことから始まった。その後、ドロシア・ラングが世界恐慌の窮状や、第二次世界大戦中の恥ずべき出来事である日系人強制収容の様子を記録した。

日本では、社会運動は行われなかったが、写真の持つ物語性への認識が高まり、日本の社会文化を記録する意識が1920年代に急速に高まった。この時期には、タブロイド判の大きな写真雑誌や新聞の別冊が作られ、高品質のグラビア印刷が行われ2、1930年代まで続いた。東京で生まれ育った濱谷浩は、始めは東京の街を空と地上から記録していたが、古くから伝わる伝統や風習をそれらが廃れてしまう前にと、1939年に日本海側の地方都市に赴き記録している。濱谷のこれらの写真は、多くの日本人写真家による記録写真と同様、雑誌で広く紹介された。

1930年代には、より特定化された記録写真である報道写真(フォトジャーナリズム)が発展した。木村伊兵衛をはじめとする写真家たちは、35ミリのライカの小型カメラを使って、ありのままの風景を撮影した。第二次世界大戦前の10年間は政治的緊張が高まった。特に1937年に勃発した日中戦争によって、報道写真は政府のプロパガンダへと変化していった。

若次が記録写真に興味を持ったのは、1920年代後半から1930年代初頭にかけての流行に影響を受けたことに間違いない。このことは、若次がロサンゼルス時代には純粋な芸術写真を追求していたにも関わらず、広島では芸術写真と記録写真を一体化していたことにも現れている。

しかし、若次は芸術写真の新しい方向性にも目を向けていた。芸術写真入りの雑誌の発達、国際的な写真展やカタログの増加により、日本だけでなく世界の美術写真の最新動向を知ることができたのだ。

写真21:松本若次「無題(郵便局カウンターに立つ女性)」1920年代後半~1930年代
1920年代末には、ヨーロッパの前衛的なスタイルが、日本の書籍や雑誌にも登場した。1931年には、1929年にドイツのシュトゥットガルトで開催された「映画と写真展」をもとに、「独逸国際移動写真展」が東京で開催され、シュールレアリスム、ドイツの新即物主義やバウハウスの美学など、欧米の最新の写真が日本中に衝撃を与えた。その証拠に、若次は建物や看板を極端なアングルで撮影した写真を数多く残している。また、彼がヨーロッパ製のモダンな家具を撮影した写真も、バウハウスを彷彿とさせるものであった。

写真20:松本若次「無題(荷車を引く男 )」1920年代後半~1930年代

広島での彼の作品の中には、雪の中で荷車を引く男(写真 20)、カウンターに立って背中に光が当たっている女性(写真 21)、雨に濡れた車のフロントガラスを掃除するワイパー(写真22)、路面電車が通る道で洗濯をする松本家の子どもたち(写真23)の写真など、素朴な街の情景を優しく写したものがある。これらの写真からは、説明的もしくは無機的というのではなく、温かく親しみやすい印象を受ける。この特別な都市、広島に対する愛情に満ちた記憶と言えるだろう。もちろん、若次は当時、広島の運命を知る由もなかった。

写真23:松本若次「無題(洗い物)」1920 年代後半~1930 年代
 

戦争

第二次世界大戦が始まると、日本国内の資源はますます軍需に傾き、若次の写真関連の物資も手に入りにくくなった。若次は写真館をたたみ、2階の住居を出ざるを得なくなった。馬車に機材と残りの写真用品、ネガ、写真、身の回りのものをすべて積み込み、広島から10数キロ離れた廿日市(はつかいちし)の地御前村にある実家へ住居を移した。

実家ではネガや写真を一室に保管し、別の場所に小さなスタジオと暗室を設けて、戦時中も撮影を続けることができた。ある時、若次は勤労動員に徴集され、山口県宇部市の炭鉱に配属された3。そして炭鉱で働いている間に、若次は重度の肺の病気を患うこととなる。おそらく慢性的な喫煙が病気をさらに進行させたのだろう。そしてこの病気は一生彼を苦しめることとなる。

広島の中心部は米軍による通常兵器の空襲を受けなかったが、軍事拠点であるため、いつ爆撃があってもおかしくない。そのため、若次たちは、中心部から離れた場所に住むほうが安全だと考えていた可能性がある4。それなのに、たまたま地御前の家が攻撃されたのである。1945年、米空母「ホーネット」の戦闘機が、近くに軍事目標がなかったにもかかわらず、荷物を軽くするためか、あるいは間違えたのか、爆弾を1発投下した。それが隣の家に落ちて5人の住人が亡くなった。その爆風や破片が実家の家屋にも当たり、若次の小さなスタジオとカメラ機材はすべて破壊された。幸いにも若次の家では誰もけがをせず、写真もスタジオから離れたところに保管してあったため、無傷であった。

原爆投下から数十年経ってから、家族と話しているときに、テエが1945年8月6日の午前8時15分の原爆投下のことを思い出して語ってくれた。テエが朝、地御前の家で洗濯物を干していると、広島市の上空にピカッと光るものが見えたそうだ。そしてそれが彼女のほうに迫ってきて、その時は爆弾の衝撃波かと思ったと言う。ある生存者は、まるで太陽が空一面に広がったようだったと語った5。広島市民と同じように、テエも何が起きているのか理解できなかったが、やがて誰もが原爆の恐ろしさを実感することになる6。若次の家に伝えられている話によると、この原爆投下の後、若次とテエは荷車を押して広島市に向かい、消失してしまった写真館の近くに住んでいた親類を捜したそうだ。そして死傷者の中に、テエのいとこを見つけ、荷車に寝かせて連れて帰ろうとしたが、地御前の家にたどり着く前に亡くなってしまった。

若次は戦争を生き抜き、1965年に地御前で76歳の生涯を閉じた。テエはさらに30年間、実家で暮らし、1995年に101歳で亡くなった。ネガや写真の箱は、意外にも2008年まで手つかずのままとなっていたが、写真家であった孫の大内斉(ひとし)がその価値に気づき、広島市公文書館に寄贈することになったのだ。

原爆投下前の広島の人々と街を芸術的に記録したこれらの写真は、まるで「猫に九世あり」ということわざのように、いくつもの命を持っているかのようである。初めは爆弾の投下による被害を危うく免れ、次には世界初の原爆投下による焼失も免れた。そして何より重要なのは、これらの若次が撮影した写真が、原爆投下前の広島を記録したものの中で最多であるということだ。広島がいかに悲惨な運命をたどったかを知るからこそ、この穏やかな写真にはどこか切なさを感じる。歴史の重みを背負っているのだ。

松本若次「広島の冬の光景」

脚注:

1. Alona C. Wilson, “Felice Beato’s Japan: People, An Album by the Pioneer Foreign Photographer in Yokohama,” MIT Visualizing Cultures, 2010, (accessed 4/11/2022)

2. Kaneko Ryuichi, “Realism and Propaganda: The Photographer’s Eye Trained on Society” in The History of Japanese Photography (Houston, 2003), 185.

3. 若次は戦時中50代であった。なお徴兵は1945年に60歳に上限が引き上げられるまでは、17歳から40歳までの健常者とされていた。

4. F. G. Gosling, The Manhattan Project: Making the Atomic Bomb (DOE/MA-0001; Washington: History Division, Department of Energy, January 1999), 45-47; Craig, Nelson, “Bombing Hiroshima,” Origins: Current Events in Historical Perspective (Ohio State University, August 2015), (accessed 5/4/2022)—日本の民間人の中には、広島がほとんど空襲を受けていなかったため、安全を求めて広島に疎開した人もいる。

5. John Hersey, Hiroshima (Knopf: New York, 1946), 8.

6. Chairman’s Office, “The United States Strategic Bombing Survey: The Effects of Atomic Bombs on Hiroshima and Nagasaki” (Government Printing Office, Washington, 1946), (accessed 5/5/2022).

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このエッセイは全米日系人博物館のオンライン展示「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」に合わせて寄稿されたものである。展示では、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真をご紹介します。

オンライン展示サイト:janm.org/ja/exhibits/wakaji-matsumoto.

*写真はすべて松本若次撮影(著作権:松本家)

 

© 2022 Dennis Reed

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このシリーズについて

このシリーズは、ロサンゼルスの農家から写真家に転身し、戦前の広島で活躍した松本若次の生涯に光を当てる。彼の貴重な写真にはロサンゼルス地域に住んでいた日系アメリカ人農家の姿、ロサンゼルスのリトル東京で行われた行事、そして1945年の原爆投下前の広島市内の生活の様子がとらえられている。芸術性とドキュメンタリー性を兼ね備えた若次の写真には、両都市の一連のパノラマ写真も含まれている。

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この2本のエッセイは、全米日系人博物館のオンライン展示「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917〜1944」に合わせて、キュレーターのデニス·リードと若次の孫娘に当たるカレン松本が寄稿したものである。デニスのエッセイは3回にわたって掲載する。

オンライン展示サイト:janm.org/ja/exhibits/wakaji-matsumoto.

*写真はすべて松本若次撮影(著作権:松本ファミリー)