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戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第2回 戦後の引き揚げ

日本に一時帰国した際の家族写真。左から父の進、恵美子、弟の正憲を抱くカヨ。  

終戦、そして新京へ

恵美子の父親の進が戦地に赴いたのは、昭和20年の5月だった。「父は目が悪かったせいで、召集されたのも最後の頃、しかも兵隊としての等級も一番下だった。満州での現地召集となり、私は母やその頃まだ幼かった弟の正憲や妹の史子とスイカの駅で父を見送った。父は列車のタラップから身を乗り出すようにして、姿が見えなくなるまで手を振っていた」。それが父との最後の別れになるとは、その時はまだ知る由もなかった。

父を戦地に見送った3カ月後、現地の日本人は集まって天皇陛下の玉音放送を聞き、日本の敗戦を知った。もう満州は日本が支配する土地ではない、身の安全は保証されなくなると、一斉に日本人の引き揚げが始まった。しかし、その時点ですでに家の中のあらゆる物が中国人によって持ち去られてしまった。母、カヨは家の中に残った物を持てるだけ持ち、正憲の手を引き、恵美子はまだ1歳になったばかりの史子をおんぶしてスイカを離れた。

そして、4人は列車で南下し、新京に辿り着いた。そこで一軒の家に5家族で暮らし、昭和20年から21年までの一冬を凌いだ。

「8畳のひと部屋に3家族、6畳のひと部屋に2家族が住んだ。ある時はソ連兵がやってきて、時計などの金目のものを持ち去った。腹巻きにお札を巻いていた私は襲われるのではないかと恐ろしくて、トイレに駆け込んで隠れた。どうやって食べ物を確保したのか?どこからか母親が買ってきてくれたし、自分でもお金を稼いだ。拾った石炭や、春になるとその辺に咲いている花などを中国人に売ってお金を得ていたのだ。日本が負けて、中国人と日本人の立場は逆転していた。でも、中国人は、日本人の子どもの私の売り物を買ってくれた」。

生活は困窮を極め、頭にはシラミ、衣服もボロボロで不衛生だった。そのような極限の状態ながらも、カヨは必死で子どもたちを守り続けた。

母のチフス感染と悲しい知らせ

そんな時、今思い出しても恐ろしいと恵美子が振り返る出来事が起こった。カヨが発疹チフスにかかり、隔離されたのだ。

「弟と妹と私の3人だけになってしまった。他の家族も同じ家にいたし、その人たちが私たちを一生懸命に慰めてくれた。それでも母親が死んでしまったらどうしよう、とそのことばかり考えて、恐ろしくて仕方なかった。母が隔離された家に会いに行った時も、そこがすごく薄暗い場所だったので余計に心配になった。だから、チフスから回復した母が、私たちのところに戻ってきた時は本当にうれしかった。母親の強い生命力のおかげで、私たちは孤児にならずに済んだのだ」。

その後、まだ新京に身を寄せていた頃、悲しい知らせが届いた。父の進が牡丹江のソ連軍収容所で亡くなったことを、訪ねてきた戦友が知らせてくれたのだ。

「その人は奈良出身の山﨑さん。父の形見としてカフスボタンを持ってきてくれた。山﨑さんが、どうやって私たちの居場所を突き止めて訪ねてきてくれたのかは覚えていない。山﨑さんが生前の父から聞いた話として分かったのだが、私たちは新京で再会できたかもしれなかったのに、父は終戦後も私たち家族がまだスイカに残っていると思い、汽車で北上していったのだそうだ。その時、一緒にいた友達は何を思ったか、北上せずに新京で下車した。友達は父に『河野くんも一緒に降りるかね』と誘ったが、父は『いや、家族がいるスイカに行かなければいけない』と断ったというのだ。結果的に父は北上した場所でソ連軍に捕らえられて収容所に送られてしまった。一方、新京で降りた友達はそこで家族と落ち合うことができた。私たちも新京にいた。父が新京で降りていたら、再会できただけでなく、父は捕虜になることもなかったのにと思うと悔やんでも悔やみきれない」。

ソ連軍の収容所では、中国語が話せる進は通訳を務めていたというが、ある時トイレで倒れ、そのまま亡くなってしまった。その話を夫の戦友から聞いたカヨは、柱に顔を押し付けて声を押し殺して泣いた。まだ9歳だった恵美子の脳裏に焼き付いたその時の映像は、75年以上経った今も薄れていない。

父不在の実家へ

その後、4人は新京から汽車で南下し、港に着いた。そして、引き揚げ者を船底にぎゅうぎゅう詰めにした軍艦は山口県仙崎の港を目指した。「船に乗る時に目の前に広がっていた海は黄色く濁っていた。その時は理由が分からなかったが、今思うと、黄河から海に流れ込んだ濁った水のせいだったのだろう」。

そして船が仙崎港に入港したのは昭和21年の春だった。仙崎では宿泊した寺で、生まれて初めて「蚊帳」を見た。「何これ?と思ったことを覚えている」。

一家は仙崎から大分県千歳村(現在の豊後大野市)の進の生家で暮らすことになった。

「私たちはまだ子どもだったし、母の決断に従うだけだった。父はすでに亡くなっていたので、母は自分の実家に帰ることもできたと思う。しかし、父の実家に戻って、弟に家を継がさなければならないと責任感を感じたようだ。父の実家は農家だったが、母には農業の経験がなかった。だから、母にとっては慣れないことばかりで、本当に苦労したと思う。私も朝早くから、田んぼの草取りなどの農業の手伝いをさせられた。どうしてこんなことをしないといけないんだろうと嫌で仕方なかった」。

それでも耐えられたのは、夫のいない夫の実家で慣れない農業に身を砕く母の姿を見ていたからに違いない。

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© 2022 Keiko Fukuda

このシリーズについて

第二次大戦前、日本人はアジアの幅広い地域に移住し、中でも現中国東北地方の満州には、1940年時点で、82万人の日本人が在住していた。
筆者の祖父、河野進も戦前満州にわたったその一人で、母、恵美子は昭和12年(1937年)、満州で生まれた。このシリーズでは、3回にわたり母の引揚者としての記憶をたどる。