ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/1/28/shinichi-kato-29/

第29回(最終回) 連載を終えて

左が加~藤新一。1975年7月、サンフランシスコで開かれた第一回地球市民世界大会へ出席したとき、と思われる。(吉田順治さん提供)

およそ1年間にわたり日米をまたにかけて活動した加藤新一という人物の生涯と業績を追ってきました。1900年に広島市で生まれ、1982年に故郷で亡くなった加藤は、戦争を間に挟みまさに20世紀を力いっぱい生き抜いた行動する人物でした。

繰り返しになりますが、私が加藤に興味を持ったのは、彼が執筆・編集した「米國日系人百年史」を知ったからでした。1961年に出版されたこの本には、アメリカ本土のほぼ全域にわたる日本人・日系人の足跡が記録されています。加藤はこの情報を得るため、車で全米を走り回りました。その距離は4万マイルにものぼったといいます。その結果は「○○州の○○に最初に入った日本人は○○だと思われる」などのように具体的に記されていて、丹念な取材が想像できます。

しかし、その取材旅行の行程をはじめどんな車でどんな旅をして、移民1世、そして2世の暮らしを見て彼らの言葉に耳を傾けたのかは記されていないので、ぜひ、その辺を知りたいと思い探りはじめました。残念ながらまとまった旅の記録はみつけられませんでした。しかし、その一方で加藤新一という人物の生涯や思想を知って、興味をそそられ彼自身について調べてみたくなりました。

こうして、加藤の足跡を訪ねる取材をはじめてまとめたのが今回の連載です。最初に「人の人生を追うことのむずかしさ」と、少々言い訳がましく連載をはじめたとおり、取材する側の事情でかけられる時間に制約があり、また日本国内だけの取材では限界がありました。

それでも、わずかに彼を知る親族や生前の彼の活動を知る人と出会うことができ、おぼろげながら彼の人生をひととおり追うことができました。広島市内でかつて加藤が暮らしていた家の付近や彼の葬儀がおこなれた寺を訪ねたことから、加藤の甥の吉田順治さんにめぐり合えたことは幸運でした。

というのも、最初、加藤の訃報記事(1982年)から加藤家の菩提寺が広島市内の円龍寺という寺だということがわかり訪ねてみたところ、「加藤さんのお墓をみる人が近くにいないので、甥にあたる人がお墓を移されました」と、先代の住職の奥さんに教えられました。幸いこの甥御さんの父親の名前とおよその住所がわかったので、インターネットで調べてみるとそれらしき人の住所が出てきました。

それを頼りに広島市の郊外に車を飛ばし目的の家のインターホンを押しました。が、応答はなく人の暮らしている気配もなかったので諦めて帰りかけたとき、「何か用ですか」と外で声をかけられました。この人が加藤の甥にあたる吉田さんで、加藤とは親交もありそこから加藤の人柄や個人的なことがわかってきました。加藤のアメリカでの活動を知る写真も見せてもらえました。

生前の加藤を知っている人という点では、原爆で亡くなった加藤の弟と妹のことを調べているときに知った「世界連邦運動協会広島支部」の森下峯子さんからも、加藤の人となりを聞くことができました。

加藤には、子ども(長男)がひとりいて、アメリカで家族を持ち暮らし、その子ども二人(加藤の孫)もアメリカにいることがわかりました。前回の記事で記したように、ロサンゼルスの広島県人会のルートでこのお孫さんと連絡がとれたことで、加藤が国連事務総長にあてた書簡があることがわかりました。

戦争がはじまってアメリカから広島に帰った加藤は中国新聞の記者になります。記者時代、そして社を辞めて平和運動にかかわった広島時代の加藤については、中国新聞特別編集委員の西本雅実さんのおかげで、およそのことは知ることができました。加藤に関わる過去の新聞記事を含めて、西本さんからの情報がなければ、今回の連載は成り立ちませんでした。

加藤は、中国新聞を辞めてしばらくして再び渡米し、ロサンゼルスの「新日米」新聞で働き、「米國日系人百年史」を編集しますが、同社が短命に終わったこともあり同社時代の加藤のことを知る人を見つけることはできませんでした。同社は産経新聞と関係があり、当時産経の記者が日本から同社のオフィスで一緒に仕事をしていたことがわかり、当時の産経の記者を探したところ、日本記者クラブ会報を通じて阿部穆氏を知り話を聞きました。が、加藤が新日米を去ったのちに赴任していたようでした。

こうした取材の過程も含めて、今回の連載では「加藤新一の足跡をたどる旅」として書いてきました。

取材をしていくと、直接原稿には反映されないものの、副産物としていろいろなことを知ることになります。今回は特に、加藤自身が被爆し家族を失うことになった原爆について学ぶことになりました。

1945年8月6日、出勤途中で加藤は原爆の投下に遭い、その直後から破壊され死傷者のあふれる広島市内を駆け回り中国新聞本社へたどりつきます。その時目にした光景をつづった手記は、書いている本人も辛いだろうとおもえる痛ましいものです。私は取材のなかであるとき、彼がたどった当時の道筋をできるだけたどってみようと、レンタル自転車で今の広島市内を回ってみました。

広島は、多くの移民を送り出した全国で有数の移民県です。そして、長崎とともに原爆に遭ったまちです。移民と原爆、この二つの事柄に大きくかかわり、ジャーナリストとしてまた平和運動家として真正面からぶつかったのが加藤新一でした。加藤の足跡をたどることは、アメリカ移民の歴史をたどり、原爆を知ることでもありました。

今回の連載では、広島とロサンゼルスの多くの方々の力をお借りしました。最後にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。

(敬称一部略、了)

 

© 2022 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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