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明治初期に南米公演した軽業師・ブラジルに住んだ最初の日本人は誰か? - その1

ブラジルに最初に足を踏み入れた日本人は、1803年にサンタカタリーナ島にロシア軍艦で着いた、若宮丸の漂流民4人であった。だが彼らは通過しただけだった。

幕末に最初にブラジルの土を踏んだ日本人は、1866年10月25日、榎本武揚ら幕府留学生が開陽丸でオランダの港を出発し、リオ・デ・ジャネイロを経由して、翌1867年3月に横浜港に帰着した時だ。

最初にブラジルに「骨を埋めた」日本人は、1870(明治3)年にバイア湾沖の英国軍艦で割腹自殺を遂げた、薩摩武士の前田十郎左衛門であった。

日本開国以降で初めてブラジルに渡った日本人は、ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号で渡航した「大武和三郎」だと言われている。その船は1889年7月に横浜に到着、リオに帰港したのは1890年7月29日だ。

ちょうどその間にブラジル帝政が軍事クーデター(1889年11月)によって倒され、共和国宣言が出されたすぐ後だった。

1889年といえば、日本でも大きな節目の年だった。自由民権運動の訴えをうけいれて「明治憲法」の発布が行われた年だ。以後、帝国議会を開催されるようになり、日本国の背骨が作られたときだった。

そんな時に、ブラジルに来ていたのだから、間違いなく早い。第1回移民船「笠戸丸」は1908年だから、それより約20年もさかのぼる。

ところがウルグアイ、アルゼンチンの研究者の調査を総合すると、どうやら日本が開国して以降では、1873年(明治6年)に日本人が南米に来ていた可能性がある。一体どんな日本人が明治6年に、地球の反対側である南米まで来ていたのか――それは軽業師だ。

江戸時代末期、最初にパスポートを発行されたのはまさに軽業師の一団だった。欧米公演に行くためで、明治維新が起きる前に米国大統領と握手すらしている。


ウルグアイで1873年1月に公演

ウルグアイ東方共和国の首都モンテヴィデオ在住の前田直美さんの調査によれば、「サツマ」カンパニー(一座)が1873(明治6)年1、2月に首都のソリス劇場で公演をしている。曲芸、軽業師、奇術師らは1月29日から2月21日までの間に10公演行った。

少なくとも明治6年に、日本人曲芸団が実際に南米公演していたことは間違いない。

ウルグアイで公演した「サツマ」座の記事(前田直美さん調査、エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」より)

ウルグアイ地元紙『エル・フェロカリル・モンテヴィデオ』は同年1月29日付で、《サツマ一行が欧州公演前に、モンテヴィデオにて公演》、2月2日には日本の地理、歴史、文化紹介記事、2月6日付では《奇術師YASSO(やそ?)が50針を扱う手さばきが観客の喝采をあびた》とある。

2月21日の公演はジョゼ・エラウリ(当時の上院議長、翌月から大統領に就任)に捧げられたという。(以上、前田直美さんの調査=市立ソリス劇場資料部(CIDDAE)、国立図書館所蔵1873年発行「エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」より)


アルゼンチンでも同年3月に

アルゼンチンの曲芸団「サツマ」座の宣伝ポスター(『アルゼンチン日本人移民史』より)

『アルゼンチン日本人移民史』前編(アルゼンチン日本人移民史編纂委員会、2002年)によれば、この「サツマ」一座は、ウルグアイの後に亜国ブエノス・アイレス市の(旧)コロン劇場にも出演した。

1873(明治6)年3月8日(土)付の公演ポスターが国立演劇博物館に残っている。現在の名高いコロン劇場ではなく、別の場所にあったもっと大衆的な劇場で、サーカス、演劇、歌舞、曲芸などの出し物を扱ったところだという。

つまり、ウルグアイ、アルゼンチンときたら次はブラジルのはずだが、検索しても今のところ、それらしい記事が出てこない。いろいろ調べているうちに、わずかながら足取りが見えてきた。


薩摩座はいつ日本を出たか

「慶応2年のパスポート」には《海外渡航が解禁された慶応二年以降の幕末維新期には、隅田川浪五郎一座、松井源水一座だけでなく、薩摩一座、早竹虎吉一座、鳥潟小三吉一座など、多くの旅芸人一座が海外に飛び出していったという》とあった1。つまり、日本を出たのは慶応二年(1866年)だ。

さらに《明治維新後、日本の芸人が相当に海外へ出て行き、1872年(明治5)には岩倉具視遣欧使節団一行がニューヨークで「サツマ」と称する軽業師数名に出会ったと伝えられているが、その「サツマ」一座が南下して、1873年にブエノス・アイレスのコロン劇場の舞台を踏んだということも考えられる》(同亜国移民史19頁)と書かれている。

なんでも、ニューヨークの五番街で岩倉具視遣欧使節団一行とばったり出会ったサツマ一座は、とつぜん石畳に土下座して周りを歩くアメリカ人の通行人を驚かせたとの逸話が残っている。

《米国で巡業をしたあと1870年暮れにオーストラリアに回ってきた薩摩一座というのがある》という記述も見つけた2

薩摩一座はおそらく最初の米国の後、オーストラリアへ。その後に再び米国に戻り、今度は南下して、1872年にはチリやペルーに足を延ばしたのではないか。

そして1873年1月にウルグアイ、亜国に来てた。欧米では成功ができなかったから、他の人が来ない南米まで足を伸ばしたのかもしれない。

その2 >>

注釈:

1.「慶応2年のパスポート」(2016年3月31日参照)

2.松山光伸、「異国の舞台に立った日本人一座を追って― 南半球に向かった開国直後の人々 ―」(2016年3月31日参照)

 

© 2022 Masayuki Fukasawa

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