ディスカバー・ニッケイ

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第23回 再びアメリカへ

1952年11月に広島で開かれた世界連邦アジア会議の事務局長を務め、日本国連協会広島県本部事務局長の職にあった加藤新一は、日本での平和運動の職を捨て、1953年4月再びアメリカに渡った。

1961年の時点での本人による1953年からの経歴は、次のようになっている。

1953年産経新聞特派員として再渡米、のち新日米新聞社に入社、次々に家族を呼寄せ、1958年米国永住権を獲得、現在(※注1961年)同社主幹。同社の1955年度版及び1959年度版全米日系人住所録を編集、1960年に南加州日本人70年史を編集、同年の日米百年祭に日本政府から表彰を受け、また大日本農会から緑白綬有効章を贈られ、同年から、翌61年にかけ新日米新聞社出版の「米國日系人百年史」並びに「在米日系人発展紳士録」をも編集した。


産経特派員から新日米新聞社主幹へ

上記の経歴によれば、1953年4月に再渡米し、55年度版の新日米新聞社全米日系人住所録の編集に携わったとあるから、産経新聞の特派員であったのはわずか1、2年のことと思われる。広島にいた加藤がなぜ産経新聞の特派員としてアメリカにわたったのか、またすぐにロサンゼルスの新日米新聞社に移ったのか。

はっきりした理由はわからないが、ことによると新日米新聞社に移るのが前提だったのかもしれない。というのは、同社が産経新聞と深い関係にあったからだ。このことは、加藤自身が編集した「米國日系人百年史」に掲載されている「新日米新聞社」の紹介記事に記されているが、その関係に触れる前に同社について説明しておきたい。

新日米新聞社は、ハワイから来た籾井剣一氏が戦後の1947年4月に週刊の新聞をロサンゼルスで創刊、その後日刊とし、戦後に復刊した羅府新報、加州毎日とともに3紙で競合した。籾井氏は、新聞発行と同時に「全米日系人住所録」を発行して評価されたが、新事業のため帰国することになり、経営を弁護士の城戸三郎氏に委ねた。

城戸氏は、戦時中に全米日系市民協会の会長として、米国居住の日系人は米国に忠誠を誓うべきであるとして、日系人の安全と権利のために先頭に立って活躍したが、このため過激な日本主義者に攻撃されることもあった。

広島にルーツを持つ城戸氏が新社長になってからも「全米日系人住所録」は、1955年度版が発行され、これが後に加藤が同社主幹となり執筆、編集した「米國日系人百年史・発展人士録」の元になっていると思われる。


新日米時代の加藤を知る人物は?

新日米新聞社と産経新聞との関係は、「米國日系人百年史」のなかの「新日米新聞社」の紹介記事をみると経緯がわかる。

初代の籾井社長時代の1952年に同社は、産経新聞社と共催で「パイオニア母国観光団」を実施したのを契機に提携をすすめ、産経から写真製版や活字鋳造の技術者が機械とともに出向してきた。また、若手記者も同社から特派員を兼ねて出向き、紙面刷新に協力した。

さらに産経新聞は、カリフォルニア州のロングビーチで行われていたミス・ユニバース世界大会の日本代表の世話を年々続けていたこともあり、カリフォルニアでの拠点として新日米の協力を得、一方新日米新聞社は産経から記事を提供してもらい新聞づくりにも協力してもらうという、協力関係ができあがっていた。

加藤は産経の特派員から新日米の記者に身分をかえ、そののち全米を駆けめぐり「米國日系人百年史」を編集することになる。繰り返しになるが、そのときの活動がどんなものだったのかを探るというのが、加藤新一をめぐる本連載のきっかけだった。

取材をすすめ、加藤本人の人生についてはだいぶわかってきたが、全米の一世を訪ね歩いた記録については、新日米新聞社が短命に終わり、当時を知る人を探しあてることが難しく、残念ながら不明のままだった。

しかし、改めて新日米新聞社の紹介記事を読むと、当時産経の東京本社から、加藤のように特派員として新日米新聞社で活動していた記者が何人かいたことから、当時を知る元産経新聞の記者を探しあて、そこから加藤についての情報をえられないかと思い至った。

1960年春撮影の新日米新聞社員一同(「米國日系人百年史」より)

そして、いくつかのキーワードをもとにネットで検索したところ、たったひとつ日本記者クラブ会報(2009年4月10日号)で、産経新聞出身の阿部穆氏が寄稿したエッセイに行きあたった。

エッセイによれば、阿部氏は、1960年代に語学研修をかねて本社からロサンゼルスに派遣され「新日米」の新聞づくりを手伝っていた。阿部氏は「(新日米の)社長、城戸三郎氏は、JACL(全米日系市民協会)の会長だったが、日系人が米軍に加わり忠誠心を示す、という方向を打ち出したため、“日本派”の人々に襲われ、重傷を負った体験をポツリポツリと語ってくれた」と書いている。

「米國日系人百年史」に掲載された自社(新日米新聞社)を紹介する記事には、当時産経から来ていた記者として、山田進一、藤崎健の2氏の名前があがっていたが、阿部氏の名はなかった。しかし、加藤と阿部氏はほぼ時を同じくして新日米のオフィスにいたかもしれないと思い、阿部氏の所在、連絡先を探した。

幸い、日本記者クラブに所属する友人の伝手で阿部氏の連絡先がわかり電話をして事情を説明すると、快諾してくれ直接会って話を聞くことになった。

田園都市線沿線に住む阿部氏は、最寄りの駅近くまで出てきて、近くの喫茶店で半世紀前の話を聞かせてくれた。政治部長やニューヨーク、ワシントン特派員などを歴任したという阿部氏は、懐かしそうにロサンゼルスでの若いころを思い出し、城戸社長が日系人をまとめるなど当時活躍した立派な人だということを語った。

阿部氏は広島・宇品で中学、高校時代を過ごしたこともあり、広島にルーツのある城戸氏にはよくしてもらったという。

当時の新日米のオフィスのようすや新聞づくりなどについても話は及んだ。しかし、残念ながら、阿部氏が藤崎健氏のあとにロサンゼルスに赴任し新日米の仕事に関わったときには、加藤新一はすでに「米國日系人百年史」の編集を終え、新日米を離れていたようだった。

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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