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前田浩一郎のシカゴ - パート 1

前田弘一郎。河出書房社 ( Wikipedia )

かつて「アメリカで最も影響力のあるプロレタリア小説」と称されたアプトン・シンクレアの『ジャングル』1 は、プロレタリア作家の前田弘一郎によって日本語に翻訳され、1925 年に日本で初めて出版された。この本に掲載されている 1925 年 10 月 12 日付の手紙で、シンクレアは前田弘一郎に「5 年間、日本で『ジャングル』を翻訳し出版する権利をあなたに与えることができれば、本当にうれしいです」と伝えている。手紙によると、シンクレアは 1921 年に東京の国際通信社の森八十太郎という人物にこの小説の翻訳出版の許可を与えていたが、結局何も実現しなかった。2

シンクレアの『ジャングル』に描かれているシカゴの屠畜場で働くリトアニア移民たちの日々の苦悩と悪夢のような労働環境は、前田子にシカゴでの自身の青春時代を思い出させた。小説に登場するハルステッド・アベニューは、前田子自身が毎日、重くてす​​り減った靴を履いてお茶を売りながら歩き回った場所である。彼は、小説の登場人物の苦悩はまさに「私たち自身の苦悩」だと書いている。3前田子は1907年から15年までシカゴに住み、帰国後シンクレアの翻訳に取り組んだ。

1906年8月5日付けの日本の社会主義新聞『光』に載ったシンクレア。

前田子はシンクレアと直接会ったことはなかったが、彼を崇拝し、1926年に『ジミー・ヒギンズ』 、1928年に『地獄』 、1929年に『ボストン』 、1930年に『山岳都市石油』、1937年に『コープ』と、彼の作品を次々と翻訳した。1926年7月、シンクレアはカリフォルニア州パサデナから前田子に別のメッセージを送り、 『ジミー・ヒギンズ』日本語版の出版を祝福した。4

前田子は1888年に日本の仙台で生まれ、中学校で社会主義に触れ、それが何を意味するのか明確に理解しないまま社会主義者になることを選んだ。5 彼は1905年に学校を中退し、その後東京に行き、有名な小説家、徳富健次郎(後の蘆花​​)の弟子になった。徳富は前田子の様々な新聞や雑誌への執筆の才能を認め、前田子のアメリカへの旅費を援助し、「泥の中の金をつかめ!」とアドバイスした。 1907年5月、中学時代の友人たちと合流してシカゴに来たとき、前田子は19歳だった。彼は良い作家になるための訓練の一環として、アメリカに数年間だけ滞在するつもりだった。

1. シカゴの辰野静雄と高橋武

辰野静雄は仙台の中学校で前田子の同級生で親友だった。静雄もまた社会主義者で、シカゴへの移住を決意し、前田子より数か月早い1906年12月に到着した。6前田子によると、静雄は「青白く頭の切れる」男で、 7ポール・ブールジェの小説やエルンスト・ヘッケル、トーマス・H・ハクスリーの科学書を読むほど頭が良かった。また、話し上手でもあった。8

静雄の兄、辰野文雄は技術者で、名門の東京高等工業学校を卒業していた。1906 年 3 月、21 歳のときにシカゴに来た。彼は、米国の方が日本よりも雇用のチャンスが多いと信じていた工業学校卒業生の一人だったのかもしれない。9最初、彼は西マディソン通り 498 番地の日の出商会で竹細工職人の長篠実の事務員として働いた。10 , 11その後、サウスシカゴ通り 9217 番地に移り、フレッドという英語名で製鉄所で働き始めた。12当時、製鉄所には数人の日本人が働いていた。機械工として斎藤作次郎、化学者としてシドニー・オオイ、製図工として服部コッコリ、鍛冶屋として高橋三之助がいた。13

辰野兄弟の従弟、高橋武も 1906 年 3 月にシカゴにやって来ていた。彼は学生で無政府主義者であると自称し、日本から持ってきたトランクは社会主義に関する本でいっぱいで、カール・マルクスの著書も多数含まれていた。14 これらの若者たちがシカゴにやって来たのは、辰野兄弟と高橋の叔父である山田七郎がシカゴに住んでいたためである。山田は紅茶とコーヒーの商人で、ノース・クラーク・ストリート 927 番地でファー・イーストという店を経営しており、彼もそこに住んでいた。15

山田はイリノイ大学アーバナ校の最初の二人の日本人学生のうちの一人だった。彼は1886年頃にイリノイに来て、同大学の農学部の予備クラスに入学した。16 彼は翌年新入生となり17 、学問の重点を農学から化学に変更した。18山田が大学を卒業したかどうかは不明だが、1890年までにイリノイ州ピオリアで化学者として雇われていた。19 この頃、彼はピオリアの「ウィスキー・トラスト」との契約で「ウィスキーの蒸留のための新しい小麦ふすま発酵法」を開発していた高峰譲吉の通訳になった。20 1892年のピオリア市の電話帳には、SR 山田と高峰の二人が蒸留業者として記録されている。

1897 年に高峰がニューヨークに移った後、山田はシカゴに移り、ウェントワース ストリート 4611 番地に店を構えたに違いない。21 1903年 1 月に山田は日本に行き、4 月に妻のヤスとともに米国に戻った。山田は 40 歳だった。22 山田は店「ファー イースト」をノース クラーク ストリート927番地に移転した。23 その後 8 年間で、山田と妻は 3の娘をもうけた。いずれもシカゴで生まれた。1905 年にチカ、1908 年にメイ (24)、1912 年にミサオである。25

若い日本人社会主義者、前田子、静雄、高橋は、人生の夢を追ってシカゴにやって来た。アメリカは彼らにとって理想的な場所だった。なぜなら、アメリカは自由と民主主義の国だと信じていたからだ。前田子にとって、アメリカは単なる巨大な資本主義国ではなく、社会主義についての自分の考えを確かめられる場所でもあった。26彼らがシカゴで過ごした年月は、アメリカで社会主義と労働運動が人気を集め始めた時期だった。1905年にシカゴで世界産業労働組合(IWW)が設立され、1906年にアプトン・シンクレアの小説『ジャングルが出版された。このような雰囲気の中で、3人の日本人移民は、社会運動を通じてアメリカを変えようと奮闘する労働者階級のダイナミックなエネルギーに囲まれていた。

しかし、山田は実際には社会主義者を嫌っており、重労働を通して静雄と高橋を矯正し再教育すると豪語していた。前田子によると、山田は甥たちを虐待し、わずかな賃金で毎日働かせていた。静雄と高橋は、昼休みもほとんど取らずに、朝早くから夜遅くまで一日中馬車でお茶やコーヒーを運んでいた。シカゴに到着すると、前田子は、出発前には日本で興奮していた静雄と高橋がまったく幸せではないことに気づいた。

静雄は数学に夢中だったが、高橋はアナルコ・サンディカリズムに夢中だった。27時が経つにつれ、彼らは徐々に資本主義アメリカの現実を認識するようになった。アメリカは夢のような自由の国ではなく、人種差別と階級差別が蔓延する場所だったのだ。人類の進歩という理想とアメリカの現実の間で深いジレンマに陥った若い社会主義の日本人は、生き残るために奮闘し、「私は何者か」「人生は何のためにあるのか」という問いの答えを探し求めた。彼らにとってシカゴは青春の苦悩を演じる舞台だった。

2. 生存

シカゴに到着後、マエダコは生まれて初めて家事労働に挑戦したが、初日に皿を割ってしまった。雇い主の年配の白人女性は彼に「あなたはまだ未熟だったと思う。これを持って帰っていいわ」と言い、銀貨を手渡し、その場で彼を解雇した。28その後、ヤマダは彼をイリノイ州スプリングフィールドに住むタケザワという男に紹介した。彼はイリノイ州スプリングフィールドでミニチュア ボウリング ゲームを作るのを手伝う労働者を必要としていた。マエダコは夜行列車でスプリングフィールドに行き、この仕事に挑戦したが、またしても「無用の長物」で、この仕事でも失敗した。29国勢調査によると、1907 年にスプリングフィールドにセイ・タケザワという名の日本人住んでいて、728 E. モンロー ストリートで紅茶とコーヒーの店を営んでいた。30 おそらく同一人物だろう。

途方に暮れたマエダコは、静雄の助けを借りてシカゴ・デイリー・ニュースに広告を出した。1907 年 6 月、次のような求人広告が出た。「日本人少年、家事手伝い希望。料理はなし。高橋、3232 ウォバッシュ - av」 31 、「日本人、執事または付き添いの職を希望。推薦書第 1 号」 32 、「日本人学生が個人家庭で一般職を募集」 33。おそらくマエダコの広告は次のようなものだったと思われる。「新聞記者経験があり、文学の才能のある若者、資格と 3 年間の大学教育が役立つ職を希望。A1 の推薦書を提出でき、安定した経歴を持つ者」 34。マエダコはようやく家事手伝いの仕事を見つけ、時には喧嘩しながらも、頻繁に家庭を変えながら 1 年半ほどその仕事に耐えた。薄暗いガス灯の中で豚肉のソーセージとご飯を食べるというのは、彼にとって驚くべき修道生活だった。35

前田子が家事にすっかり飽きたころには、静雄はすでに山田のもとを去っていた。静雄は兄の文雄から借りた金で、二人で紅茶とコーヒーの商売を始めた。ラングレー通り36番街に部屋を借り、店名を「チェリーアイランド」とした。36 1908年のシカゴ市役所の電話帳によると、紅茶とコーヒーの商店は500軒ほどあった。この商売がいかに競争が激しく、生き残るのがいかに大変だったかは容易に想像がつく。

彼らの商売のルーティンは次の通りでした。「まず、週の予算を例えば 29 ドルに設定し、卸売業者から 29 ドル分の紅茶とコーヒーを買います。次に、市内の各家庭を訪問して注文を取ります。そして、週末に注文を配達します。売り上げは約 40 ドルで、宿泊費と食費を払うと、残りはほぼゼロになります。まあ、運が良ければ、1 ドル 50 セントが利益として残るかもしれません。」 37彼らは毎日朝 7 時から夜 8 時 30 分まで働きましたが、稼ぐことができませんでした。38彼らは最終的に、コーヒーを香水と果物に置き換えて、さらに 1 年ほど商売を続けることができました。39

セールスマンであることは前田子にとって抑圧的なものだった。白人社会では、作り笑いで客に媚びを売らなければならないため、前田子は気後れしていた。40 前田子は日本の師である徳富に次のように報告している。 西海岸と違って、シカゴでは日本人に対する大きな反感はなかった。少なくとも迫害と呼ぶほどではなかった。しかし、アメリカ人が私たちを見る目、話しかけ方、反応の仕方に複雑な態度をとると、そこに電撃的な「迫害」の火花が散り、私たちがこのように鋭く神経質に反応するのは奇妙だ。」 41

貪欲、嫉妬、人種差別といった人間の醜い本質とともに生きることに疲れた前田子は、絶望の中で苦しみながら、自分自身を恥じるようになった。42次第に、彼は深い懐疑と悲観の底なしの穴に落ちていった。43

パート2 >>

ノート:

1.シカゴ百科事典、 442ページ。
2. じゃんぐる、前田浩一郎
3. 同上、2ページ。
4. まえだこ、ギジンジミ。
5. 「明治42年5月29日付財閥通信第1号」武蔵野ペン第1号
6. 前田幸『青春の自分像』31ページ。カナダから米国への到着港/米国国境検問所における米国入国管理官向けの外国人乗客リストまたは名簿 - 1895-1960年。
7. 「1910年9月15日付財閥通信第2号」 『武蔵野ペン』第2号。
8. 前田湖『人間(大陸編)』 340ページ。
9. ダニエル・イノウエ『 Distant Islands 』157ページ。
10. 1897年シカゴ市の電話帳。
11. 1909年のシカゴ市の電話帳。
12. 1910年の国勢調査。
13. 同上。
14. 前田子『赤い馬車』27ページ。
15. 1904年シカゴ市の電話帳。
16. イリノイ大学アーバナ校の学習と労働に関するカタログと回覧、1886-87 年、イリノイ大学カタログと登録簿 1885-1887 年、17-18 ページ。
17. イリノイ大学アーバナ校の学習と労働に関するカタログと回覧、1887-88 年、イリノイ大学カタログと登録簿 1887-1890 年、17 ページ。
18. イリノイ大学アーバナ校の学習と労働に関するカタログと回覧、1888-89年、イリノイ大学カタログと登録簿1887-1890年、21ページ。
19. フランクのピオリア市ディレクトリ 1891-1892。
20.遠い島々、 46ページ。
21. ワシントン、乗客および乗組員リスト 1882-196。
22. 同上
23. 1904年シカゴ市の電話帳。
24. 1910年の国勢調査。
25. 1920年の国勢調査。
26. 中田幸子『前田弘一郎に許される「アメリカ」』 115ページ。
27.青春の自画像55ページ。
28. 同上、57ページ。
29. 同上、58ページ。
30. 1908-1912 スプリングフィールド市の電話帳。
31.シカゴ・デイリー・ニュース、1907年6月20日。
32.シカゴ・デイリー・ニュース、1907年6月21日。
33.シカゴ・デイリー・ニュース、1907年6月22日。
34.シカゴ・デイリー・ニュース、1907年6月4日。
35. 前田湖「水からをおくる書」日米時報1920年1月1日
36.青春の自在像、 80ページ。
37. 「1908年11月4日付財北通信第1号」
38. 「1908年9月25日付財北通信第1号」
39. 前田子「俺の三十六年」 『文章倶楽部』38ページ。
40. 前田湖『大防風宇時代』 28ページ。
41. 「1910年9月15日付財北通信第2号」
42.大防風宇時代29ページ
43. 『俺の三十六年』40ページ。

© 2020 Takako Day

シカゴ アメリカ 作家 作家(writers) イリノイ州 社会主義 翻訳者
執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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