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前田浩一郎のシカゴ - パート 2

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3. 自殺の誘惑と再生

1909 年 6 月までに、希望を失い、人生の意味もわからなくなったマエダコは、4 回も自殺を試みた。1 10年後、彼は、地獄の壁に 6 ドルずつ与えられ、尻尾を上げて逆さまにぶら下がり、深淵の底を見つめているヤモリのような体験だったと報告している。2彼は拳銃を購入し、自殺を図ろうとしたができなかった。その後、インディアナ州ゲーリーに行き、ボートを借りてミシガン湖に漕ぎ出して溺死しようとしたが、やはりできなかった。他に選択肢がないため、インディアナからシカゴ行きの貨物列車に飛び乗った。その列車で、彼は浮浪者と出会った。彼と話をしたことで、マエダコは勇気づけられ、生きる必要があると理解することができた。3

商売をやめた後、前田子さんと静雄さんはウェストチェスナット通り168番地4に移り、正社員としての生活に戻った。前田子さんはミルウォーキー通り718番地5のチャス・M・ジェヴネさんに紅茶とコーヒーのセールスマンとして雇われた。ノルウェー人のジェヴネさんはノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンに詳しい人で、シカゴ中を毎日配達する6台か7台の馬車を持っていた。6二人はまた、マディソン通り2301番地にある竹村秀夫さんと浦野義富さんが経営する日本の呉服店、ニットー社7でも働いていた。8

日常生活が落ち着くと、前田子は、日本の師である徳富蘆花、自分自身、そして人類全体を愛さずにはいられないことに気づいた。9徐々に、生活と執筆を続けるだけのエネルギーを取り戻した。10前田子が文学の勉強を再開する一方、静雄は1910年秋に日東社を辞め、アイオワ大学に留学し。11

しかし、静雄は学生生活に戻ることができなかった。2か月後、彼はシカゴに戻り、伏見貞次郎がハルステッド通りと34番街の畜産場近くに開いた中華料理店でウェイター兼マネージャーとして働き始めた。19歳の独身男性だっ伏見は、家事労働をしてレストランを開業するのに十分な資金を貯めていた。しかし、再び退屈になった静雄は、ついにシカゴを離れ、ニューヨークに向かった。13

マエダコはジェヴネで週5日働き続け、残りの日は暗い部屋に閉じこもり、フランス語と英語でエミール・ゾラを研究し、まるで悪魔に取り憑かれたかのように執筆活動を続けた。14

1911 年の夏、マエダコは優れたイラストレーターであっため、ワバッシュ通り 328 番地にあるシカゴ肖像画会社で巡業画家となった。シカゴ郊外やインディアナ州の農村を訪れ、農民の肖像画を描いた。16インディアナ州ブルックでは、シカゴレコード紙で 12 年間コラムニストを務めたジョージ・エイドと出会い、イリノイ州モメンスでは、かつては社会主義者であったが、当時は日本政府に雇われ、米国における日本の外交政策の代弁者となっていたジャーナリスト、KK カワカミとも呼ばれるカワカミ キヨシと出会った。

彼は川上に対する印象を次のように記している。「後藤新平という大物政治家から金銭を受け取っていたという噂を裏付けるかのように、彼には社会主義の痕跡は残っていないようだった。日本を守ることに満足しているようで、私は彼を哀れに思った。しかし、私は30分間、この夫婦と英語で会話を楽しみました。」 17

1912年、前田子は仕事で旅をする代わりにスタジオで働き、1,400枚の肖像画を描いた。18数ヶ月後、彼は良い従業員ではなかったため解雇された。実際、彼はあまりにもひどい仕事ぶりで、もっと早く解雇されるべきだったと彼自身も確信していた。19彼は山田の仕事に戻り、屋根裏部屋で高橋と暮らし、週に3日お茶の配達を手伝った。20


4. ジョセフィン・コンガー・カネコ

前田子、高橋、静雄のような日本の文学・社会主義青年にとって、人生における二つの最大の転機は、1910年11月のレフ・トルストイの死と、1911年1月の日本政府による無政府主義者幸徳秋水を含む12人の急進派の虐殺であった。彼らは、ほとんどの日本の進歩的な知識人と同様、トルストイを崇拝していた。シカゴの社会主義者金子毅一によると、「日本の近代リアリズム派の小説家を代表するのは、すべてトルストイ主義者である。…今日の日本の進歩的な作家や思想家のほとんどすべてが、多かれ少なかれトルストイの著作に影響を受けていると言っても、まったく不合理ではない」 21。静雄と高橋はトルストイの死に非常にショックを受け、虐待していた叔父の山田との関係を断つことさえ考えた。22これが静雄をニューヨークへ移すきっかけの一つだったのかもしれない。シカゴに留まることは無意味になったのだ。

前田子はシカゴの新聞で幸徳の死を知った。「幸徳は真のサムライだ。人間の尊い概念がすべて凝縮された日本刀の美しさを体現している」と前田子は考えた。23幸徳の生き方と死に方に深く心を動かされた前田子は、月1ドルでタイプライターを借り、虐殺を題材にした「絞首刑執行人」という物語を書いた。彼はその原稿をカンザス州ジラードで発行されていた社会主義新聞「ザ・カミング・ネイション」に送った。出版社は彼に20ドルを支払い、「絞首刑執行人」は1912年11月に出版された。24この成功に勇気づけられた前田子は、英語でさらに執筆を続けることを決意した。彼は若者だけが持つことのできる希望に生きていた。25

ジョセフィン・コンガー・カネコ。( Wikipedia )

おそらくジョセフィン・コンジャー=カネコが前田子に『ザ・カミング・ネイション』に原稿を送るよう勧めたのだろう。なぜならコンジャー=カネコはシカゴの日本人社会主義者、金子喜一と結婚する前、カンザス州ジラードで社会主義週刊紙『アピール・トゥ・リーズン』の記者として働いていたからである。彼女自身も『ザ・カミング・ネイション』に「第三世代へ」という記事を寄稿していたので、 26この出版物の編集者を知っていたに違いない。後に前田子はコンジャー=カネコに勧められたことを認めている。27

前田子は高橋と静雄が金子夫妻を訪問するたびに同行していたため、金子夫妻を知っていた。28高橋は金子がシカゴに到着した直後に幸徳から金子を紹介された。29

ジョセフィン・コンジャー・カネコは 1905 年にニューヨークでキイチ・カネコと結婚し、1906 年 10 月にシカゴに移住した。1907 年 6 月、シカゴで社会主義フェミニスト雑誌「ザ・ソーシャリスト・ウーマン」の発行を開始した。1908 年 7 月、経済的な理由とカネコの健康上の理由から、カンザス州ジラードに移住し、雑誌の発行を続けた。しかし、カネコは 1909 年 5 月に日本に帰国しなければならず、1909 年 10 月にそこで亡くなった。コンジャー・カネコは 1911 年 5 月にジラードからシカゴに戻り、ドレクセル・アベニュー 5445 番地に住み、 30シカゴの社会主義者の集まりを頻繁に開いた。その 1 人がウィリアム・イングリッシュ・ウォーリングで、彼は「大富豪」の社会主義者で、マエダコが言うところの「飢えていない人の趣味」だった31

シカゴに戻った後、前田子は金子に連絡を取り、アドバイスを求めた。金子は前田子の英語をチェックし、英語で書くように勧めたと推測される。前田子が故金子喜一の写真をもとにして描いた横顔に、大喜びした金子が長い間それを居間に飾っていたことから、二人の仲が良かったことがうかがえる。32

前田子の英語デビュー作は、1912 年 5 月のコンガー・カネコの進歩的女性」に掲載された「新しい女性へ」という詩だった。この雑誌の当初のタイトル「社会主義女性」は、1909 年 3 月にジラードで発行される際に「進歩的女性」変更された。前田子は詩の最後で「今や叫び声、女よ目覚めよ」と叫んだ。その後、コンガー・カネコは彼女の雑誌に前田子の作品をもっと掲載した。「最初の女性の娘」、 アジアの統一」、 ミカドの鶴の」、「江戸の正月通り 、「薩摩の椀」 37

『プログレッシブ・ウーマン』1912年11月号。

1912 年 11 月号の「絞首刑執行人」のほかに、カミング・ネイション誌は、まだカンザス州ジラードに拠点を置いていた 1913 年 1 月に、マエダコの「幽霊の夜」を掲載した。38これらの物語で、マエダコは、女性、日本人に対する異国情緒、アジアにおける日本の外交といったテーマについて書いた。39出版社は 1913 年 2 月にシカゴに移転したが、1913 年 6 月に廃刊となった。このとき、コンジャー・カネコは自身の雑誌の名前を引き継ぎ、1913 年 11 月に「進歩的女性」「カミング・ネイション」に変更した。コンジャー・カネコの管理の下、カミング・ネイションの新版は、マエダコを支援し続け、彼の反戦作品「記念碑」を掲載した。40

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ノート:

1. 「1909年6月20日付財北通信第1号」
2. 「水からをおくる書」
3.大防風宇時代、 39ページ。
4 1910年の国勢調査。
5. 1910 年のシカゴ市の電話帳。
6. 「1911年2月22日付財閥通信第3号」 『武蔵野ペン』第3号。
7.大防風雨時代、 136ページ。
8. 1910年の国勢調査。
9. 「1910年6月23日付財北通信第2号」
10. 同上
11. 「1910年9月15日付財北通信第2号」
12. 1910年の国勢調査。
13.人間(大陸編) 341、393ページ。
14. 「1911年2月22日付在北通信第3号」
15. 1910年のシカゴ市の電話帳。
16. 「1911年9月23日付在北通信第3号」
17.青春の自画像111ページ。
18. 「1912年2月2日付財閥通信第4号」 『武蔵野ペン』第4号。
19.人間(大陸編) 343ページ。
20.青春の自画像、 115-6ページ。
21. 金子毅一「トルストイが日本で成し遂げたこと」 『トゥ・モロー』 1907年1月。
22.前田弘一郎著「アメリカ」 48ページ。
23. 「1911年2月22日付在北通信第3号」
24.来たる国家1912 年 11 月 16 日。
25. 『俺の三十六年』40ページ。
26.来たる国家1912年10月12日
27.人間(大陸編) 133ページ。
28.青春の自画像、 119ページ。
29. 『プログレッシブ・ウーマン』 1911年5月号。
30. 『プログレッシブ・ウーマン』1911年5月号。
31.青春の自画像120ページ。
32. 同上
33. 『プログレッシブ・ウーマン』 1912年8月号。
34. 『進歩的女性』 1912年10月号。
35. 『プログレッシブ・ウーマン』 1912年11月号。
36. 『プログレッシブ・ウーマン』 1913年1月号。
37. 『進歩的女性』 1913年9月号。
38. 『The Coming Nation』 1913年1月4日号、12ページ。
39. 『進歩的女性』 1913年10月号。
40. 『来たる国家』、 1913年12月。

© 2020 Takako Day

作家 シカゴ イリノイ州 社会主義 翻訳者 アメリカ 作家(writers)
執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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