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シカゴ醤油物語 ― 永野晋作と日本人起業家たち - パート 3

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6.醤油よ永遠に

竹田商店がシカゴに進出した 1907 年 8 月、後に島津美咲牧師が会長となった日本人 YMCA が、グローブランド アベニュー 3036 番地に日本人学生のための寮を開設した。1 島津牧師と同様にシカゴ大学で教育を受けたもう一人の牧師、片田江駒太郎牧師は、1906 年にプレーリー 2938 番地の自宅を日本人学生のための宿舎「日本人宣教の家」に改装した。この日本人宣教の家は後にコテージ グローブ 4352 番地の日本人キリスト教協会に発展し、谷茂治運営し、2 階と 3 階に宿泊施設、1 階にレストランと日本製品の小売店があった。2 谷は 1915 年にサウス ステート ストリート 643 番地にレストランを開いた。3 1914 年に三川為吉がコテージ グローブ アベニュー 2426 番地に日の出旅館を開業した。4

20世紀初頭、これらの宿泊施設に宿泊した日本人留学生や観光客に、醤油をかけた日本食が提供されたことは容易に想像できる。日本人は当然、自宅でも日本食を食べていた。1911年頃にシカゴに来た元ニューヨーク総領事の水野幸吉は、新聞に宛てた手紙の中で、シカゴの友人宅ですき焼きやマグロの刺身を食べたと述べている。5

禁酒法時代、移民労働者に安価な食事を提供した日本食レストランは、戦後の経済とともに繁栄した。また、日本文化全般を受容する「ジャパニズム」の波もシカゴに到来した。スティーブンス・ホテルには、1930年代には、日本食を提供することなく、壁に広重の有名な東海道五十三次と同様の日本画が飾られた大きな日本食ランチルームがあった 6

シカゴ大学のキャンパス内には日本人が経営するカフェがあり、 8学生や訪問者はインターナショナルハウスでご飯と天ぷらを楽しむことができた。9 1920年代後半、山崎保馬などの日本人レストラン経営者の中には、モデルとなる日本料理レストランを開店し、すき焼きをメニューに載せて「ジャパニズム」を刺激しようと計画していた者もいた。10なぜなら、日本人だけでなくアメリカ人もシカゴにすき焼きレストランが少ないことに不満を抱いていたからである。11

1930 年代になってようやく、シカゴに正真正銘の和食レストランがオープンしました。1931 年 5 月、新谷留乃が 3725 Lake Park に「新谷食堂」オープンしました。当時、新谷食堂はシカゴで唯一のすき焼きレストランでした。12 新谷留乃は 1912 年頃に渡米し、ワシントン州生まれの 2 人の娘と 3 人の息子を連れてシカゴに到着しました。彼らは島津牧師の日本人青年キリスト教会 (JYMCI) に滞在し、留乃は JYMCI でハウスキーパーとして働き、JYMCI のレストランで日本料理を作るなどして家族を支えました。13 約1年後、彼女は自分のレストランをオープンしました。そこは「お母さんの家庭料理」の日本版を提供する人気店でした。

シカゴ・デイリー・ニュースのコラムニスト、ジョン・ドゥルーリーは著書の中で、新谷食堂を次のように紹介している。「おいしいすき焼きを味わいたいなら、レイク・パーク・アベニュー3725番地にある新谷の故郷のレストランにぜひお越しください。」 14日本のすき焼きは、第二次世界大戦前のシカゴの人々の間でよく知られていました。新谷食堂は1935年に名前をミヤコに変更し、ラッシュ・ストリート743番地に移転しました。15

レストラン「みやこ」と中央の新谷さん(伊勢・ツィンメルマン家提供)

もう一つの和食レストラン「双葉」も、新谷食堂と同じ1931年にイーストオーク109番地にオープンした。双葉では、懐石料理、すき焼き、うどん、そば、各種丼もの、しだし、弁当など、一般的な日本食を提供していた。16 レストランには畳の部屋があり、主に缶詰の食べ物を提供していた。レストランの入り口には、日本語で「双葉」と書かれた提灯のような紙で覆われた照明がかかっていた。17

双葉のシェフはシアトルからシカゴにやってきた金澤宗一であった。18彼は和歌山に生まれ、1912 年 11 月にシアトルに着いた。1920 年にはすでにレストラン業に携わっていたので、23 歳19の時点で彼は「呼び寄せ二世」と呼べるかもしれない。

双葉は、日本大使の斉藤弘を招いてレセプションパーティーを開くほど高級なレストランとみなされていた。20金澤は日本人シェフとして信頼されており、1931年5月に開店したイーストゲーテ通り19番地のシカゴ日本クラブの責任者にも任命された。同クラブは定食すき焼き懐石料理を提供していた。21シカゴ日本クラブはシカゴ日本観光局の宿泊施設で、向山輝夫が経営していた。22

日本人が経営するアメリカのレストランでもすき焼きは提供されていた。そのひとつが、1937年にコーネル通り5253番地にオープンした金山萬勝のレストランだった。23シカゴでの醤油の消費はすき焼きの人気とともに増加した。すき焼きは第二次大戦後のシカゴでも人気を失うことはなかった。ジャック・レイトとリー・モーティマーは著書『シカゴ・コンフィデンシャル』の中で、すき焼きレストランについて次のように述べている。「すき焼きはテーブルで調理され、フライパンで生のまま出される。グレービーソースのないチャプスイのようなものだ。ウェイトレスがガスか炭火で目の前で調理する。味は醤油だ。ノース・ワバッシュ739番地のウィステリアでは、靴を脱いで床にあぐらをかいて座る。」 24

ワシントン生まれの二世、カツミ・ノザワが経営するレストランウィステリア」では、日系アメリカ人女性が伝統的な着物を着て接客していた。25 ノザワは以前、イースト・デラウェア・プレイス 58 番地のデラウェア・ガーデンズで、すき焼きディナーを提供していた。26 S. オキモト夫人はイースト・オハイオ・ストリート 212 番地のウィステリア・ティールームも経営しており、そこでもすき焼きを提供していた。27

19 世紀に日本人移民がシカゴにやって来て以来、シカゴにはジャパンタウンと呼ばれる物理的な居住区はなかったが、過去 100 年間にわたり、醤油が人々を結びつけてきた擬似日本人コミュニティが存在した。醤油は、日本人と日系アメリカ人がどこへ行ってもついて回る。たとえば、第二次世界大戦後に日系アメリカ人が強制収容された後に移住先として選ばれた都市の 1 つであるデンバーには、戦後すぐに醤油工場が 1 つではなく 2 つあった。1 つは Rafu Shoyu Co. (ラリマー通り 3500 番地)、もう 1 つは Nakamura Co. (アラパホー通り 1935 番地) である。どちらの工場も白味噌と、彼らが「USA キッコーマン」と呼んでいたものを製造していた。28

1946 年 1 月、シカゴ新報はマルショー醤油の大きな広告を掲載しました。29この醤油はアリゾナ州グレンデールの昭和醤油醸造所で製造されていました。30しかし、戦後シカゴのフジ醤油はどうなったのでしょうか。

1943年9月にニューヨークを出港した、一世と二世を日本に送った2番目の交換船、グリプスホルム号の船名簿には、永野晋作と宮城島三郎の名前が記載されていた。このリストは日本政府によって作成されたもので、永野と宮城島は日本にとって貴重な存在とみなされ、希望すれば米国を離れることが政府によって許可されていたことを意味していた。31

しかし、長野と宮城島は日本に帰国しなかった。長野と妻のカクが所有していたフジ・トレーディング・カンパニーの株式は、1941年12月に外国人財産管理人によって差し押さえられていたが32、長野はシカゴに留まり、441 W. Huron Street 33にあるフジ・トレーディングで働き続けたが、1951年9月15日にシカゴのアパートで心臓発作のため突然亡くなった。享年69歳だった34。長野の死後もフジ・トレーディング・カンパニーは繁栄を続け、1963年にフジ・フーズ株式会社となった35

永野は、1906 年に日本茶と醤油の商売でアメリカに挑戦するという大きな夢を抱いてシカゴに渡り、 45年間シカゴで働き続けた。全盛期には、新聞記者に「自分は特別な栄誉を受ける資格はない。自分の手で自分の運命を切り拓くべきだ」と謙虚に語った。36 また、勤勉な日々を「わがものと思えば軽し笠の雪」「転がる石に苔は生えず」という諺にも表している。37

これは勤勉の美しさであり、長野はこれらの言葉で、第二次世界大戦前の一世の生活の真の美学を捉えています。

ノート:

1.日米週報、 1914年5月16日。
2. 伊藤『しかごに燃ゆ』 、1923年シカゴ市電話帳、164ページ。
3. 1916年シカゴ市の電話帳。
4.日米週報、 1914年2月7日。
5.日米週報、 1911年12月9日。
6. 木下乙一『アメリカの産業廃棄物処理運動を見る』 42ページ。
7. メニューコレクション、qF38JB M52、シカゴ歴史博物館。
8. 入澤宗悦『欧米の印象』303ページ。
9. 小泉『アメリカ紀行』197ページ。
10.日米時報、 1928年7月7日。
11.日米時報、 1929年1月19日。
12.日米時報、 1931年5月2日。
13. 1930年国勢調査、日米時報、1929年4月20日。
14. ジョン・ドゥルーリー著『シカゴガイド』 172ページ。
15.日米時報、 1935年1月1日。
16.日米時報、1931年5月11日、1932年5月18日。
17. 伊藤『しかごに燃ゆ』 164-5ページ。
18. 伊藤『鹿後日系百年史』 235ページ。
19. 1920年の国勢調査。
20.伊藤『しかごに燃ゆ』 165ページ。
21.日米時報、 1932年1月6日。
22.日米時報、 1931年10月17日。
23.日米時報、 1937年8月14日。
24. ジャック・レイトとリー・モーティマー、 「シカゴ・コンフィデンシャル」 、87ページ。
25. 伊藤『鹿後日系百年史』 295ページ。
26.シカゴ新報、 1946年1月3日、シカゴ日系アメリカ人年鑑、1947年。
27. シカゴ日系アメリカ人年鑑、1947年。
28.シカゴ新報、 1945年11月15日。
29.シカゴ新報、 1946年1月3日。
30. シカゴ日系アメリカ人年鑑 1947年。
31. 外務省外交史料館、A-7-0-0-9-24-1。
32.シカゴトリビューン、1951年9月2日。
33. シカゴ日系アメリカ人年鑑、1947年。
34.シカゴ新報、1951年9月19日、シカゴトリビューン、1951年9月17日。
35. シカゴ電話帳、1963-64年。
36.日米時報、 1926年5月8日。
37.日米時報、 1931年1月3日。

© 2020 Takako Day

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執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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