11月に岡村眸子鳥の俳句をお届けできることは、私たちにとって大きな喜びです。彼の孫、マイケル・オカムラ氏(リトル東京歴史協会)に眸子鳥の俳句を紹介されて以来、私は1920年代初頭に眸子鳥が共同で立ち上げたアゴスト社へのオマージュとして、リトルトーキョーで句会を再現することを夢見てきました。今がどのような時であろうと、どのような衝突の最中にあろうと、私はこうした詩の中に素晴らしい光と慰めを見いだしています。岡村眸子鳥の俳句を(優れた写真と共に)お届けできることをとても誇らしく思います。どうぞお楽しみください!
— トレイシー・カトウ=キリヤマ
岡村眸子鳥(本名:岡村敏行)は、1894年に鳥取県で生まれました。1916年、22歳の時に農学生として渡米し、すぐにカリフォルニア州の農場で働き始めました。ほどなくして敏行はロサンゼルスにたどり着き、リトルトーキョーに魅了されました。ロサンゼルス郡一般病院の近くに住みながらリトルトーキョーのパシフィック・プリンティング・カンパニーや朝日新聞、トーキョー・プリンティング・カンパニーで仕事を見つけました。敏行にはクリエイティブな一面があり、多くの一世の独身仲間と共に積極的に俳句や書、写真制作に取り組み、俳号を眸子鳥としました。鳥取県人会や共同で立ち上げたアゴスト社句会、アーティスト集団の赤土社の活動にも積極的に参加しました。眸子鳥の俳句は、1920年代から30年代に地元の日本語誌や新聞に掲載されました。
敏行は日本の家族に手紙を送り、アメリカでの生活の様子を知らせていましたが、再び祖国の地を踏むことはありませんでした。敏行は妻のチハルと共にリトルトーキョーから東へ数マイル離れたボイルハイツ地区のエバーグリーン墓地に眠っています。
灯ともせば花こぼる沮して泪する枕
柘榴みごとはぢけ
おちて土と語る
母に寄すアメリカの夜空の星かず
ふたりまづ虫をききそれから明治のはなし
熟柿くちにもつていく
思ひ残ることなし
夜霧の伴が減つて減つてひとり
めうと、としての四十年月に見てもらつてゐる
* これらの俳句は、1920年代から30年代に地元の日本語誌や新聞に掲載されたもので、著作権は孫のマイケル・オカムラに帰属します。