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高橋武のシカゴ - パート 3

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5. エマ・ゴールドマン、小徳、高橋

1907 年、マザーアースは、幸徳が 1906 年に米国から帰国した直後に日本で創刊した新刊『平民新聞』を紹介した。彼らが掲載した広告には、次のようなものがあった。「革命的社会主義の日刊紙『平民新聞』が東京で発行されています。日系アメリカ人の同志で、その内容について教えてくれる方がいらっしゃれば、喜んでコピーをお送りします。」 1この呼びかけに応じたのは高橋だったのかもしれない。というのも、1907 年の秋、高橋はゴールドマンに会うためにニューヨークへ行ったからである。マエダコによると、高橋は次のように報告している。「私はまずニューヨークの地方支部に行ってドライバーズユニオンに入会した。しかし、私がアジア人であるという理由で受け入れられなかった。それが AFL のゴンパーズの方針だった。そこで私はしばらく家政婦として働き、エマ・ゴールドマンに会いに行ったところ、彼女は私を歓迎してくれた。」 2

エマ・ゴールドマンは「黄禍」の恐怖を次のように批判した。「ヨーロッパとアメリカの資本家が、それぞれの政府の援助を得て、彼らの「文明」をアジアに持ち込み、後者の本当に教養のある人々に彼らの粗悪品を買わせることができる限り、黄禍は存在しなかった。『異教徒』が彼らの白人の『恩人』から教わった教訓を実際に適用し始め、彼らもまた文明を広め始めたとき、なんと!突然、私たちは黄禍に見舞われたのだ!」 3高橋はゴールドマンの言葉に深く心を動かされたに違いなく、ニューヨークで母なる地球のための毎週の基金に1ドルを寄付した。4

しかし、高橋がニューヨークに住んだのはほんの数ヶ月だった。1908 年 2 月、シカゴに戻る途中、コネチカット州グリニッジから再び 50 セントをマザー アースサステイニング ファンドに寄付した。5 1908 年 3 月 9 日、シカゴに戻った高橋は、IWW の「一般会員」として 50 セントを支払った。6 高橋、日本やサンフランシスコ ベイエリアの同志から、日本で社会主義者が迫害されていることを説明する怒りと悲しみの手紙を受け取った。7高橋は、それらから、反政府出版物を含む言論の自由が日本では厳しく制限されていることを知った。

抑圧的な雰囲気を嘆き、日本や米国の他の地域から社会主義者や無政府主義者の同志が何人か高橋を訪ね、時には日本の他の同志からの紹介状を持ってきた。8 K. Tetsuka もその一人だったに違いない。Maedako によると、「Tetsuka」と呼ばれる「同志」がしばらくの間、山田の紅茶とコーヒーのビジネスを手伝っていた。9 K. Tetsuka はまた、IWW の「一般会員」になるために 1 ドルを支払い、1908 年 3 月 13 日に 1 ドルで IWW のハンドブックを購入した。10この「K. Tetsuka」は、カリフォルニア州バークレーに住んでいたことで知られる、社会主義者で会議で頻繁に講演していた手塚小弥太だったのだろうか。11手塚が中西部にどのくらい滞在したかは不明であるが、1915 年にサンフランシスコで 35 歳の若さで亡くなった。シカゴで高橋を訪れたと思われる他の日本人アナキストには、富田恒吉や西条悟などがいた。12

クリスチャンであった富田は、1903 年に米国人宣教師とともに日本からサンフランシスコにやって来た。そこで彼はアメリカ社会党に入党した。シカゴに来てからは新聞社に勤めていると報じられた。13 彼は 1918 年にサンフランシスコに戻り、 14 1935 年に 52 歳で亡くなるまでそこに住んでい。同じくクリスチャンであった西条は、1907 年にバークレーからシカゴに移住し、そこで職を見つけた。15彼は米国滞在中にアイオワ州デュビュークにも住み、シーダーラピッズで「ジャップ バザール」[フリーマーケット]を経営していたと日本政府に報告されている。16 1919年までに西条は過激な思想を捨て、南カリフォルニアの日本人会衆派教会の牧師になっていた。 17彼は1921年に結婚し、カリフォルニアで3人の子供をもうけ、1956年にロサンゼルスで亡くなった。彼の活動家としての過去に関する興味深い手がかりは、労働運動家サミュエル・ゴンパーズにちなんで長男にゴンパーズと名付けたことから浮かび上がった。18

1908 年の秋、高橋は再び 1 ドルを「マザー アース持続基金」に寄付しました。19 エマ ゴールドマンが日本と日本人に対する態度を変えたことは明らかでしたなぜなら、彼女は今や高橋や幸徳のような同志と直接連絡を取っていたからです。以前は、彼女はそれほど親切ではありませんでした。1906 年 3 月 6 日の「マザー アース」の創刊号では、日本について皮肉を込めて次のように触れています。「日本 - 新しい文明国... 彼らは自らを嘲笑していましたが、その方法がわかりませんでした... 日本は他の文明国に並ぶことができます。喜べ!... 簡潔に伝えられるところによると、ほぼ 100 万人が飢えで死ぬ危険にさらされています。今や日本が文明国であることを疑う人はいないでしょう。」幸徳はサンフランシスコから「マザー アース」のこの創刊号について日本に報告しました。 20 1907 年 5 月号で、 『マザー・アース』は社会主義革命党の宣言を「時代の非常に希望に満ちた兆し」であり、「アメリカの労働者が『異教徒』の兄弟から学ぶべきことがたくさんあることを示す注目すべき文書」として紹介した。21その後、幸徳とゴールドマンの直接の連絡が確立され、幸徳と彼の同志である大石内蔵助は 1907 年からほぼ 1 年半にわたってマザー・アース』を購読した。22

「日本の同労者から」高橋の声明。産業組合報(1908年6月20日)

ゴールドマンと幸徳の温かい関係に勇気づけられたかのように、高橋は 1908 年に産業組合報 告書の第一面中央二段に「日本の同労者より」と題する長い声明文を書いた。23まず、日本の労働運動の最近の展開を説明し、幸徳を運動の英雄として称えた。その後、口調を変えて日系移民と米国労働者に行動を呼びかけ た。記事の中で彼はこう叫んだ。「鈍く無関心で、たまには希望と火が私の同胞の目に輝く。なぜか?人種問題、物質的条件、そして米国労働者の日本人に対する卑劣な態度が原因である!」 「彼らが白人の兄弟に手を差し伸べると、いわゆる社会主義者を含めて、嘲笑と石で迎えられる... 彼らを同志にし、協力し、共に闘う白人労働者がいることを彼に理解させることは難しい。」

彼は自らを「東洋のクーリー」の一人と呼び、「私自身、いわゆる労働組合員から路上で石を投げつけられたり、皮肉を浴びせられたりしたことがある。その時は嫌な気持ちや苦々しい気持ちを抱かずにはいられなかったが、それでも私は大義のために仲間でありたいと思った」と続けた。

高橋は、自分がよく通っていた政治団体からの資金援助を受けて、自分の新聞を発行したいと考えていた。24彼は上記の記事で、「日本人移民労働者の仲間を目覚めさせる時が来た」と宣言し、ついに 1909 年の春に「アメリカにおける日本人労働者の解放」を訴える 1 ページの 2国語新聞「ザ・プロレタリア」を創刊して夢を実現した。25 「ザ・プロレタリア」はウェルズ ストリート 935 番地で印刷され、購読料は年間 50 セントであった。26

現在では原本を見つけることはほとんど不可能ですが、1910 年 7 月にMother Earth が次のように『プロレタリア』の一部を転載したので、原本がどのようなものであったかを垣間見ることができます。

西海岸の日本人労働者の最近の状況は悲惨だ。真夏にも関わらず、大勢の人が仕事を求めて職業紹介所の前に群がった。過去 3 年間の活発な反日運動は、彼らを特定の地区や事業から追い出すのに十分な効果を上げている。この運動は卑怯でこっそりとした方法を採用し、暴力手段さえも使っている。日本人は西側の大都市の路上で昼間に公然と襲撃され、誰もそれを妨害しない。同時​​に、両国の資本家は今日何を認識しているだろうか。彼らは太平洋の波の上でお互いに最良の挨拶を交わし、中国の市場で激しい商業闘争を繰り広げているにもかかわらず、自分たちの利益が要求するときはいつでも妥協することをためらわない。貴族階級の日本を代表するクニー王子は、ホワイトハウスでどれほど温かく迎えられたことだろう。渋沢男爵とその一行は、富裕層の日本を代表するが、アメリカの資本家たちが各都市を旅して、彼らの歓待を受けたのに対し、あなたたち労働者は、レンガを投げつけ、冷笑して日本の労働者に挨拶した。しかし、これは過去のこととしよう。今や、このような些細な違いは完全に消え去り、我々の真の敵である資本家階級に対して共通の利益のもとに団結すべき時が来ている。団結しよう!言葉だけではなく、我々の団結が行動に発展しなければ、賃金奴隷の解放は達成されない。救済は、人種や肌の色に関係なく労働者の団結にある。27

もちろん、 『プロレタリア』の出版は日本政府に報告された。極秘報告によると、 『プロレタリア』の理念は「米国で日本人労働者を組織し、資本家と政府に抵抗させ、国民の団結を破壊する」ことだった。高橋は「社会主義の発展を阻止することに成功した日本政府を呪い、社会主義者の逮捕の厳しさに憤り、シカゴの外交官に対する個人攻撃を掲載した」と報告された。さらに日本政府は、 『プロレタリア』がニューヨークのアメリカの社会主義新聞からの資金援助を受けていると疑っていた。28高橋が実際に社会主義団体やエマ・ゴールドマンから資金援助を受けたかどうかは不明だが、 『プロレタリア』は資金不足のため短命に終わった。

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ノート:

1.母なる地球、 1907 年 5 月。
2.青春の自画像、92ページ。
3.母なる地球、1907年5月。
4.母なる地球、 1908年1月。
5.母なる地球、1908年4月。
6.産業組合報、 1908年4月18日。
7.青州の子供像、109ページ。
8. 前田弘一郎著『大防風宇時代』 111ページ。
9.青州の子供像、84ページ。
10.産業組合報、 1908年4月18日。
11. 1910年5月7日付けの孫哲夫から高橋作栄への手紙。
12.社会主義社無生婦主義社人物研究資料 1.
13.社会主義者無生婦主義者人物研究資料 1.
14. 第一次世界大戦の登録。
15.社会主義社無生婦主義社人物研究資料 1
16.『米国における日本人釈迦主義者無生不滅主義者縁覚』 112ページ。
17. 第一次世界大戦の登録。
18. 1940年の国勢調査。
19.母なる地球、 1908年10月。
20.、1906年4月20日。
21.母なる地球、 1907年5月。
22. 山泉進「だれが『赤エマ』を見たか」 『少子社会主義研究』第4号、1990年12月28日。
23.産業組合報1908年6月20日
24.大防風宇時代、141ページ。
25.母なる地球、 1910 年 7 月。
26.母なる地球、 1910 年 7 月。
27. 同上
28.社会主義社無生婦主義社人物研究資料 1.

© 2020 Takako Day

積極行動主義 無政府主義 シカゴ 世代 イリノイ州 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 社会的行為 社会主義 タケシ・タカハシ アメリカ
執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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