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前田弘一郎のシカゴ - パート 3

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5. フロイド・デル

フロイド・デル。( Wikipedia

イリノイ州出身で、シカゴ・イブニング・ポストの週刊付録であるフライデー・リテラリー・レビューの編集者だったフロイド・デルも、マエダコの米国での作家としてのキャリアに大きな役割を果たした。デルは、 1909年3月の創刊当初からフライデー・リテラリー・レビューに関わり、シカゴの文学批評に新たな基準を設定したシカゴ文学復興の主たる扇動者の一人でした。2

デルはプログレッシブ・ウーマン』にも関わっていた。1912年2月から1913年4月までプログレッシブ・ウーマン』に「本と作家、大義」というコラムを書いた。また、1912年9月号のフィクション編集者にも任命され、「進歩党」と「暗黒大陸」という2つの評論を書いた。1912年10月に編集者になったので、デルはマエダコの作品を編集したに違いない。マエダコはジョセフィン・コンガー・カネコの家で初めてデルと会い、すぐに親しくなったと伝えられている。この親しさはマエダコがデルを「同志」と呼ぶほど強かった。3

マエダコは、コンガー・カネコの自宅の居間の窓際の椅子に座っていた「痩せて背の低い」デルを紹介されたとき、次のように書いている。「彼は沈黙の中で燃えているろうそくのようだった。アメリカ人らしくなく、内気そうに見えた...」 4 「彼はアメリカ人には見えず、むしろ日本人に近かった。彼の目つき、手足の使い方は、日本の俳優のようだった。彼と話していると、彼の笑顔が神経質な日本人の笑顔とまったく同じであることに気づいた。最初から好きになれるアメリカ人に出会うことはめったにない。」 5

デルは、コンガー・カネコのところで前田子を紹介されたときから、前田子の名前を知っていた。前田子によると、二人の会話は次のようだった。

デル: 先日、あなたの「ハングマン」を読みました。私も、我らがジャック・ロンドンのように、日本政府の不正を訴えるのが好きです。とても心温まる物語でした。時間に余裕があれば、このような物語をもっと書いて、最新の日本文学について書いてみてはいかがでしょうか。

前田子:日本の近代文学が単なるフランスの模倣だということを知ったら、興味が湧きますか?

デル: ええ、そうです。その事実を知るのはとても興味深いです。土曜日の文芸版で見ることができると思います。6

フライデー・リテラリー・レビューは、河合運吉著『皇冠を授けよ』 7、野口米著『日本におけるラフカディオ・ハーン』 8アセナイオン著『日本の詩』 9など、日本や日本文学に関する本の書評を時々掲載してい。デルが日本とその文化に自然な関心を抱いていたことは明らかである。デル自身も野口米著『巡礼』の書評を書いている。10 残念ながら、デルがシカゴにいる間、前田子の日本文学に関する記事はフライデー・リテラリー・レビューに掲載されなかった。

1913 年 10 月、デルがニューヨークへ出発する直前、マエダコはシカゴ・イブニング・ニュースのデルのオフィスを訪れた。11 デルが編集していたFriday Literary Reviewの最終号は 1913 年 9 月 26 日であったため、マエダコの訪問は 9 月末だったに違いない。デルはマエダコに次のように語った。

マイダコさん、今週がシカゴでの最後の週になります。つまり、もうこの仕事には留まりません。もう紙の仕事はありません。明後日にはニューヨークに行きます。」

「あなたは永久にいなくなるのですか?」

「はい、永久にフリーランスになって、生活のために一生懸命働きます。」

「さて、近いうちにニューヨークでお会いする予定です。

「本当ですか? じゃあ、グリニッジビレッジに来るから会いに来てください。」

二人は別れる前に握手を交わした。デルはマエダコの目に寂しそうに映った。12

コンガー=カネコやデルとの親交を通じて英語での執筆に自信をつけていた前田子は、熱心に様々な雑誌を買い求め、そこに作品を送った。しかし、ほとんどの編集者は彼の作品に全く注意を払わず、返送用伝票をつけて彼に送り返した。13それでも、前田子にとって幸運なことに、1913 年、ニューヨークの出版社、文学、国際政治、哲学、演劇を扱うリベラルな雑誌『インターナショナル』から、彼の『二十世紀』が、野口よねの『日本人から見たオスカー・ワイルド』とともに出版された。14これは、前田子がシカゴを去る前に発表した最後の作品となった。

静雄とデルがニューヨークに移った後、前田子の頭のほとんどをニューヨークのことが占めていた。おそらく、デルのニューヨークへの招待が彼を勇気づけたのだろう。旅費を貯めるために、彼はシカゴ西部のリバービューパークにある、やはり日本人が経営するミニチュアボウリング場働き始めた。7年前のスプリングフィールドでの勤務時代を思い出し、前田子は感極まった。15 ついに1915年10月、彼はシカゴを離れ、山田から送別品とてもらった竹の棒を持ってニューヨークに向かった。16 野心が彼をニューヨークに向かわせた。彼は27歳だった。17

リバービューパークの入り口。( Wikipedia )


6. あとがき

前田子氏はニューヨークのグリニッチビレッジに到着するとすぐにフロイド・デル氏を訪ねた。彼はその時の会話を次のように振り返った。

「こんにちは、デルさん。またお会いできて嬉しいです。昨日ニューヨークに来たばかりです。」

「ああ、舞田子さん、やっと来たのね。入って座って。」

「さて、調子はどうですか?頑張っていますか?」

「ああ、まさにそういうことです。あなたはどうですか?」

「まずは街を見て回り、それからヴァニティ・フェアザ・スマート・セットエブリバディなど、私が知っているあらゆる雑誌の編集者を訪ねるつもりです。」

「よかった。ニュー・リパブリックは読んでみましたか?読んでいないなら、フランク・ハリスに手紙を書きます。」

「ありがとうございます。そうしてください。ここから遠いですか?」

「いいえ、ほんの数ブロックです。ところで、フランク・ハリスは、あなたが以前私にくれたような、日本文学に関する記事に興味を持つと思いますよ。」

「他に何かできますか?」

「では、街を見て、五番街や自由の女神像などの風景やその他の事柄をスケッチしてみてはどうでしょうか。独創的でユニークな視点から見れば、興味深い記事になるでしょう。」 18

前田子の「現代日本文学」は、1916 年 1 月にニュー・リパブリック誌に掲載された。19ニュー・リパブリック誌は、シカゴ・イブニング・ポスト紙金曜文芸評論でデルの古い同僚(実際は上司)だったフランシス・ハケットが 1914 年に創刊に関わった雑誌である。さらに、前田子がシカゴから 2 年間通信していたブルーノズ・ウィークリー誌20 は、彼に「ファンタジー」というコラムを提供し、彼の短編小説「女性」、「異国音楽」、 21 「トルストイ」、 22およびラフカディオ・ハーンを題材にした「客人」 23を掲載した。

前田子が編集者から日本の面白いラブストーリーを書くように依頼されたとき、実はデルが前田子と東京の歓楽街である吉原についての作品を共著したいと考えていた。24その作品「桜」は、出版社が「職業的な性愛者などを扱った物語に反対」したため、最初は拒否された。25しかし、前田子の吉原に関する詩「夜想曲」は、1916年9月号の「スマートセット」に掲載された。

しばらくして、デルはフロイド・デルと「ヒロイチロウ・マイデルコ」の共著である「チェリー・ブロッサムズ」の出版社を見つけた。この作品は1917年2月にピアソンズ・マガジンに掲載された。デルは以前、ピアソンズ・マガジンの編集者フランク・ハリスにマエダコを紹介していた。この作品は後に、1926年に出版されたデルの本「グリニッチ・ヴィレッジの恋」に収録された。作品名は「グリーン・ハウス」に変更され、マエダコとの共著であることは明記されておらず、「ヒロイチロウ・マイデルコに謝辞を」という言葉だけが残っていた。26

この頃(1917 年)、社会主義作家が『ヴァニティ フェア』『ハーパーズ』などの資本主義雑誌に受け入れられようとしていることの皮肉を感じた前田子は、英語で執筆することは自分にはあまりにも浅薄で、空虚で、ばかげていると結論付けた。27彼は自分の気持ちを次のように説明した。「アメリカ人は、日本人を、女性、着物、富士山、吉原、芸者で飾られた愚かな人形だと思っており、まじめに世俗的な欲望を抱いている生身の人間ではないと考えている。ハーパーズアトランティック マンスリーなどの大手雑誌は、腐った封建時代の日本人の物語を求めている。彼らは彼ら独自のステレオタイプでエキゾチックな日本を求めているのだ。」前田子は非常に腹を立て、フロイド デルに意見を求めた。デルは前田子の意見に同意したが、彼にいくらかのお金を貸す以外何もできなかった。前田子は 2 か月間苦しみ、成功した英語作家としての自我と、社会主義の理想に固執することを要求する内なる意識との間で葛藤した。 「それは資本主義の誘惑によって軟化した自己に抵抗するためのマゾヒスティックな手段だった」 28マエダコは最終的に、彼の社会主義の理想は日本では通用するかもしれないが、資本主義のアメリカではそうではないことに気づいた。29

ニューヨークでしばらく日本の新聞社に勤めた後、1920年1月に帰国した。ニューヨークで送別会が開かれ、辰野静雄と、日本で最初のキリスト教社会主義者の一人である片山潜が出席した。30そのころには、静雄は「弁論家」となり、ニューヨークのブロードウェイ1400番地でキーナン・アンド・カンパニーの一座と活動していた。31 静雄の兄の文雄はシカゴ大学の短期大学に通っていたが、 32 1918年にシカゴを離れ、インディアナ州エバンズビルの横浜カフェでウェイターとして働いていた。33静雄の従兄弟の高橋武は、結核を治すためにずっと前にシカゴから南カリフォルニアへ旅立っていた。34

シカゴの古い友人たちの中で、日本に帰国できたのは前田子だけだっ。彼は33歳で、新たな野心と希望、そして漠然とした社会主義的階級意識を抱き、日本に帰国する準備ができていた。35 1920年、日本に帰る途中、列車を乗り換えるためにシカゴに立ち寄った前田子は、シカゴが去ったときからまったく変わっていないことに気づいた。前田子は、シカゴは楽観的であり、その楽観主義は大陸的で純粋にアメリカ的であるが、彼の目には破滅的でもあると感じた。36

7 年後、フロイド・デルは、1926 年にデルが『老人の愚行』を出版した後、日本にいる前田子に手紙を書いている。デルからの手紙は、前田子にとって「心を突き刺されたよう」だったなぜなら、「シカゴとニューヨークでは、あなたは私の人生を立て直すためにあらゆることをしてくれたのに、私はあなたの温かい友情に何も捧げることができなかった」からだ。37デルはアプトン・シンクレアに関心があり、フライデー・リテラリー・レビュー誌にシンクレアの『愛の巡礼』の書評を書いた。38 デルはシンクレアに関する著書『アプトン・シンクレア:社会的抗議の研究』の出版準備中に、シンクレアと連絡を取り、前田子について話し合った。39デルはおそらく、前田子に自分の本の日本語訳を依頼した人物だろう。前田子はデルにこう返事した。「あなたの『愚行』はとても興味深いと思いますが、実はまだ読み終わっていません。読み終わったら、日本での出版の見通しも添えて、手紙を書きます。 」40

デルの作品は、結局、別の日本人翻訳者によって日本語に翻訳され、1930年代に出版されました。前田子は、生前、デルの作品を一度も翻訳しませんでした。その理由は誰も知りませんでした。

ノート:

1.フライデー・リテラリー・レビュー、 1913年10月3日。
2.シカゴ百科事典、 502ページ。
3. 1927 年 2 月 20 日付、マエダコのフロイド デル宛の手紙、フロイド デル文書、ニューベリー図書館、ボックス 10 フォルダー 330。
4.人間(大陸編) 412ページ。
5.青春の自画像121ページ。
6.青春の自画像121ページ。
7.フライデー・リテラリー・レビュー、1910年8月12日。
8.フライデー・リテラリー・レビュー、 1911年8月4日。
9.フライデー・リテラリー・レビュー、 1911年8月11日。
10.フライデー・リテラリー・レビュー、 1909年10月8日。
11.フライデー・リテラリー・レビュー、 1913年10月3日。
12.青春の自画像、 135-6ページ。
13.青春の自画像、 134-5ページ。
14.インターナショナル、 1913年2月。
15.青春の自画像、 136ページ。
16. 「1915年11月20日付Z愛北通信第4号」
17. 『俺の30年』40ページ。
18.青春の自画像145ページ。
19.ニューリパブリック、 1916年1月8日、pp.256-257。
20. 「1915年11月20日付在北通信第4号
21.ブルーノズ・ウィークリー、 1915年12月4日。
22.ブルーノズ・ウィークリー、 1915年12月11日。
23.ブルーノズ・ウィークリー、 1916年1月8日。
24.青春の自画像157ページ。
25. 「1915年11月20日付在北通信第4号」
26. デル、フロイド『グリニッチビレッジの恋』253ページ。
27. 「1916年3月5日付在北通信第4号」
28. 『俺の306年』41ページ。
29.青春の自画像169ページ。
30.日米時報、 1920年1月10日。
31. 第一次世界大戦の登録。
32. シカゴ大学1916-1917年年次記録。
33. 第一次世界大戦の登録。
34.日米週報1917年12月29日青春の自画像183ページ。
35. 前田子、 4年生の現代まで。
36. 前田幸「日本まで」日米時報、1920年1月17日。
37. 1927年2月20日付の前田子の手紙。
38.フライデー・リテラリー・レビュー、1911年5月5日。
39. 1927年2月20日付の前田子の手紙。
40. 同上

© 2020 Takako Day

シカゴ アメリカ 作家 作家(writers) イリノイ州 社会主義 翻訳者
執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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