ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/03/27/

第29回 姪の渡米計画に心躍る

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1970年、日本の万国博覧会の成功を遠くで見つめ、渡米前に過ごした京都・京極での思い出を語る。この年は、なにより姪が自分のところへ渡米して来たいという気持を知り、あれこれアドバイスをするなどし実現に向けて心を躍らせる。

* * * * *

〈寝転んで追憶にふける〉

1970年1月31日

美さん(義妹)、お手紙ありがとう。御心中、お察しします。実はハシカの少しひどい位に思っていたので、余り気にもかけずに居りました。今、世界のあちこちで、はやって居るジャーマンミーズルのように思えます。中々悪性で死人も少なくないとの事です。

それにしても××はこちらに来て居なくて幸いでした。今、フロリダは病人の掃き溜めのような有様で病院も医者も足らぬ様な状態です。私は昨今、カゼ気で休んで居ります。作物の被害は予想外で、一万ドル以上に達するかもしれません。

○○は米国嫌いである。私の帰化を喜ばなかった。間接ではあるが、あれの今あるのはこの国のお蔭である。私がこの国に来て居なかったらなにもできなかったと、クドクドとその心得違いを諭した。返事は来なかった。それのみか、毎年欠かさず来る年賀状も来なかった。私は黙っていた。

あんたも何一つ言わず、最近になって、二年ぶりで二、三回手紙が来たが、帰化については素知らぬ顔だった。私は黙っていた。玲子(姪)にも話したが、あれも何も言わなかった。明子(姪)は人並み優れて……、私は心からあれを愛していた。誰でも思い違いも過ちもある。あればあやまる外ない。でないといつまでも根を引く。今朝も寒い。今8時過ぎだが、北風がビュービュー吹いている。

歳を取ると、嗜好も変わり、あれほど好きだった読書も今は直ぐ飽きて、TVも面白くない。出歩きたいが、足が悪いので出来ぬし、カーで遠乗りは危険。だから寝転んで追憶にふける。何年経っても変わらぬのはお茶漬の味。さようなら。


〈大根の種子を送ってくれ〉 

1970年2月8日

玲さん、面倒だろうが、紫蘇(シソ)の種子と時なし大根(注)の種子を一合ほど送ってくれないか。野菜類の種子は送る許可は要らぬ。極新鮮なのを最寄りの種子屋で買い布袋に入れ普通便のパーセルポストで送ってくれ。航空便は高くつく。

私は大根おろしとシソの佃煮が大好物、日本からのシソは高くつくため手に入れにくい。大根はよく出来るが、夏には時なし(注)より外、出来ぬ。こちら製だが沢山できる。

二、三日前心配していた寒気は急に回れ右してメキシコ湾方面へ外れたので被害は免れた。今日もビリビリ雨のうえ、かなり冷えるし、風邪気味なので休んでいる。作物はほとんど見込めない。郡農会技師の奔走でポートリコーキャビヤン(?)を海の一島から一万本苗を取り寄せ、試作する事を決心した。

(注)時なし=大根の一種。とうが立ちにくく耐寒性があり、時節を限らず収穫ができる。根はやわらかく漬物に適する。ときしらずともいう。


〈渡米前の京都の思い出〉

1970年3月2日

玲さん。その後、変りはないか。手紙を貰っても返事も出さず、済まない。気が晴れぬ上、忙しいので、ゆっくり書く気になれないのだ。こちらは相変わらず気候不順で二、三日前からは急に寒くなり、夜など電気フトンにくるまる有様だ。

今来た住友銀行からの手紙では京都もここ二、三日寒かったとある。64年前、この月、私は京都に居た。眼が悪くて検査のために通ったのだ。その頃の京都は京極の外はあまり賑わってなかった。

お金がなかったので見物も出来ず、京極も一度素通りしただけだ。京極の突き当りに焼き芋屋があった。私は度々買いに行った。二銭も出すと、一度に食べきれぬほど買えた。嵐山の桜は既に散っていたが近くの川で若い娘さん達が深い……をはいて青物を洗っていた。その頃はまだラバーブーツがなかった。

近所の古本屋へ出かけて立ち読みした。店のおばさんはよさそうな人で、別に嫌な顔もしなかった。それでも渡米する時は日本太古史の大冊や……物語という冒険小説を買った。アメリカへ行くんで船の中で読むんだと言ったら「まァ」と言って涙ぐんでいた。

私は日本に生まれてほとんど日本を知らない。而して富士山だけは見た。船が横浜を出て大島近くに来た時、突然あの勇姿が雲の上にあらわれた。「白扇倒し・・・東海の天」。千古の名句である。

玲さん、話がつい横道へ外れた。実はあんたに特別なお願いがあるのだ。あの宮津辺りによくあるユスラ梅の種子が欲しいのだ。京都辺りにもあると思う。5月頃熟する実を買って食べ、種子をよく洗って蔭干でよく乾いたのを一合ほど、空便で送って貰いたい。暑くなると、普通便ではうまく着かぬ。

大阪の万博は大評判だ。京都や奈良も見物客で雑踏を極める事と思う。お母さんや明子からも手紙が来ている。


〈アボガド40本、マンゴー20本、パパヤの種子も〉

1970年3月14日

玲さん、2月の4日に送った雑誌、まだ着かぬか。今日は3月14日、少し長くなり過ぎる。まだ着かぬようなら郵便局へ問い合わせてくれ。もっともあんたが送ってくれた(ずっと前)本もまだ着かぬ。こちらは急に寒くなり、毎日、北風がヒューヒュー吹いている。

昨日、差した柿の苗木30本、今日植えつけた。大部分は種子なし(宮津辺では美濃柿と呼んでいる)。十種程で試作用だ。3年も経てば日本の柿が食べられる。桃栗三年柿八年は実植えの事で、今のは皆接ぎ木だから八年も待たなくてもいい。

アボガド40本、マンゴー20本、パパヤの種子も蒔かねばならん。寒さのため万事手遅れだ。あの小型のカーが来た。速力も走るぐらい出るし、子供でも楽に運転できる。ローンモーア(芝刈り機)がついたら、庭園の芝刈りも出来る。今夜のTVでは明日開く大阪の万博も雪のため日延べになるかも知れんとの事。あんたの長い手紙、昨日うけ取った。明子の病気、案外長引くようだが、これも矢張り気候の為だろう。じきによくなる。

今夜も冷える。電気ブランケットにくるまり、ベツトでこの手紙書いた。


1970年4月13日

〈姪の玲子が渡米して、助次のもとにやってくるという計画が持ち上がって……〉

玲さん、あんたの渡米について依頼してあった友人から通知があった。その写しは左記の通りだ。新聞記者吉津さんとも親しい間柄で、吉津さんのお父さんは元ハワイ大学の講師でハワイに住んで居られる。

他の方法もないではないが、中々面倒な上、時間を要す。この方法で都合よく行けば一、二ヶ月で来られる。善は急げだ。あんたに故障さえなければ最寄りの米国エンバシー(領事館)で旅券を申請するのだ。 

外遊された人があんたの知人の中に少なくないと思う。委しい事は問い合わさせた方がよい。

当方別に変りなし。昨今急に夏らしくなり、日中は裸で暮らせる。パイナップルは予想外の仕事、その後大雨もあり、今は恢復の見込みはほとんどない。何もかも天命だ。私は病を押して努力した。今は何ら悔いることはない。依頼したユスラ梅、まだ見つからぬようなら農事試験場に問い合わせしてくれ。


〈自分の娘が来るようだ〉 

1970年4月27日

1970年に地域のコミュニティーセンターから助次宛てに送られたバースデーカード。『姪はいつ来るのですか』とも書かれている。

玲さん、旅費の事は心配しないでいい。初めからちゃんと都合してある。旅券が下付され次第送る。見知らぬ姪が不遠、来る。何だか、自分の娘が来るような気がする。孤独生活六十有余年、夢のようだ。

ミセス・ヴァジニヤ・スナイダーは婦人記者で、当地在住の吉津美代子さんはワシントンで裁縫の先生をして居られる。お父さんは帰化一世、元ハワイ大学の講師。今は引退してハワイに住んで居られる。今度、あんたの渡米の事もこの方のお考えだ。以前送った吉津さんからの手紙と今度のスナイダーからの手紙の写しを一度読み直ししてくれ。

本も種子も受け取った。紫蘇はよく生えたが少し時季おくれ。育つかどうか。大根はもう蒔かぬ。 

明子からも写真が入った手紙が来ている。手紙くれというあんたへの手紙は皆見ている事と思う。そのうち特別のを書こう。右手は相変わらず不自由で無理すると、少し痛むが字を書くにはさしつかえぬ。日本字、書くのがだんだん難しくなる。字は忘れる、物の名は思い出せぬ、止む無く英和辞書から探し出すより外ない。

私の筆跡は読みにくい事だろうが、暇があっても今時の活字式の字は書く気になれぬ。

今、丁度夜の10時過ぎだ。腹が空いた。お茶でも沸かして、貰ってあるケーキでも食ふ事にしょう。目下あんたを迎える新しい家を考案中だ。来ても都会育ちのあんたには何かと不自由だろうが、我慢するのだ。暫くの間だ。馴れて来る。


〈日本の方がいいと思ったら帰ればいい〉

1970年5月30日

玲さん、15日付けの手紙うけ取った。繰り返し、繰り返し読んで、あんたが呼び寄せを希望と解かった。スナイダーさん達の言われるようにまずは観光で来るのが簡単で一番よいと私も思った。今、日本から観光で来るのは面倒な手続きを要しない。呼び寄せには保証人を要する。名目だけでなく、事実全責任を負わねばならぬ。

それには資格、即ち十分な財産がなければならぬ。あんたは英文のスポンサーシップを読んだだろうか。観光で来れば一ヶ年は滞在できる。今のアメリカはさほどかんばしくない。あんたが来て吃驚するだろう。一年も居れば大体様子が解かる。

日本より良いと思えば永住の手続きをする。日本の方がいいと思えば帰るのだ。誰にも遠慮することはない。すべてあんたの自由だ。あんたがどうやって来ようと私が全責任を持つ。この点誤解のないよう頼む。観光団で来れば何かと便利だし、費用も助かる。

別に急ぐ旅でないので船で来れば、ハワイへも立ち寄られる。私は約3週間ばかり休んでおり、手足も前より少し悪い様だが、手の指丈は少しよくなって字を書くのにさしつかえない。

去る15日は私の一大記念日であった。64年前、一ヶ月余りの旅行を終え無事に当地に着いたのであり、……炎熱百度の未開の地、蚊と熱……の巣であった。

こちらはまた雨期に入り、連日の降雨だ。苗の植え付けには持って来いの日和なのでアボカド50(5種)を痛む腕を我慢して植えつけた。マンゴーも50本程植える予定だ。三年後には立派な実が採れる。あんたが摘む姿が眼に浮かぶ。

ピンキー(猫)は元気だ。乱暴で始末におえぬ。所構わずひっかき、私の足はキズだらけだ。昨日も鉢物を棚から蹴落とした。幸いソーファの上だったので、こわれなかった。昨今働けぬ。食欲がない。何を食べても不味い。お茶漬で過ごす日が多い。

(敬称略)

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© 2020 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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