ディスカバー・ニッケイ

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ビル・ホソカワ: 一難去って1

ビルとアリス・ホソカワ(全米日系人博物館提供、宮武東洋スタジオ撮影、アラン・ミヤタケ一家寄贈)

彼は特別な椅子に座り、毛布を膝にかけ、日差しを浴びていた。周りには新聞5紙の残骸がある。世界情勢を確認して朝の日課を終えたところだ。同じ出来事を新聞各紙がどう報じているかを確認することが狙いだ。その優れたキャリアの最後まで、彼は随一のジャーナリストだった。

当時ビル・ホソカワは90代で、ジャーナリストになってからは70年以上が経つ。じきにシアトルに移り、娘と住むことになっている。彼の人生は92年前にシアトルで始まった。そして鮭が生まれた川に帰るように、ビルも帰郷し、人生の幕を閉じようとしていた。

ビルの父は、移民の親元に生まれた最初のアメリカ国籍の息子、クンペイが公立学校に溶け込むには、(アメリカ名として)”ウィリアム2”が良い名前だろうと考えた。公立学校へ通い始めたクンペイ・ビル・ホソカワは、他の移民の子供たちと同じく英語が話せなかった。ビルは成績優秀で、英語と米国史が好きだった。日本移民の子供たちはアメリカ化教育と、教室の地球儀に描かれた1つの輪郭に過ぎない国を本拠とする家族史や文化、伝統の狭間にいた。

ビルの父、セツゴウ・ホソカワは16歳で渡米し鉄道関係の仕事をしていた。鉄道の仕事を辞めた後は農場労働者、雑役夫、家事労働者として転々とし、その後シアトルに落ち着き職業紹介所を開いた。1913年、セツゴウはあらかじめ結婚相手として選ばれていたキミヨと会うため日本へ一時帰国した。口髭を蓄え、山高帽を被り、縁なし眼鏡をかけたセツゴウはとてもハンサムだったが、キヨミにとってはアメリカ行きという未知の冒険について行くしか選択肢はなかったのかもしれない。

夫婦は2人の息子を授かった。ビルは、弟のリツオ、アメリカ名ロバートに比べて内向的だった。ビルは5フィート10インチ(約178cm)、150ポンド(約68キロ)と他の日系二世と比べてずっと体格もよく、家族写真を見ても5フィート(約152cm)を少し上回る程度の両親や弟より、はるかに背が高かった。

ビルは14歳でシアトルのガーフィールド高校に入学し、夏になると多くの二世の少年たちと一緒にアラスカへ行き、サーモンの缶詰め工場で働いた。雇用形態も賃金も大人と同じだった。少年たちは魚をさばき、洗って加工機械に流し入れ、積み出し用に缶を梱包し、週に60時間働いた。賃金は月75ドルだった。少年たちが寝泊まりした飯場は、1軒が白人用でもう1軒がアジア人用だった。

ジャーナリズムへの関心が高まったのは、高校の校内新聞のスポーツ編集者となったことがきっかけだった。大恐慌の時代に高校を卒業して就職先を見つけることは難しく、大学の学費は安かったことから、1933年にビルはワシントン大学に入学しジャーナリズムを専攻した。ビルは、実家に住みながら夜はジミー・サカモトが発行していた新聞、『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ』で働いた。サカモトは元ボクサーで、試合で負った怪我が原因で盲目だった。クーリエの仕事でビルは学費を払った。

卒業を控えたビルは、ジャーナリズムの指導教員との面談で“日本人の坊や”を雇う新聞はないだろうと告げられた。ビルが見つけることのできた唯一の仕事は、シアトルの日本領事館で領事の書簡やスピーチを書くという秘書の仕事だった。領事だったキャリア外交官はシンガポールに転勤後、現地で日本の出版社が英字新聞の発行を予定していて、アメリカ式ジャーナリズムに通じた編集長を探しているとビルに手紙で知らせた。

ビルは二つのジレンマに直面した。自分はシンガポールに行きたいのか?結婚したばかりの妻、アリスは一緒に来てくれるだろうか?より重要なのは後者だった。アリスはポートランドで育ち、夫を亡くした母親と弟と暮らしていた。ビルとアリスは意を決して難しい決断を下し、シンガポールに渡った。ビルは新聞の発行に関わる全ての行程を学んだ。1年半後、彼らは第一子を迎えるために帰国すべきかどうかという、また別のジレンマに直面した。2人の懸念は中国の医療の質と帰国後ビルが仕事を見つけられるかどうかという問題だった。結局2人は、ビルがアジアに残ることを決めた。ビルがアジア情勢について理解を深めたのはこの時期だった。日本がアジアで積極的に勢力を拡大していた頃、ビルはアメリカ人としての独自の視点を提示したが、彼のコラムは時として日本寄りであると解釈さた。

戦争が間近に迫り、ビルは中国を発つ最後の船に乗り、真珠湾攻撃の2か月前、妻と14か月になる息子との再会を果たした。大統領令9066号は日系アメリカ人の忠誠心を疑問視した。シアトルの日系コミュニティのリーダーとして、ビルは人々と共に日系コミュニティと政府間の理解を促すために働き、政府への忠誠心を示すため、大統領令9066号への協力を後押しした。過去に書いた記事によって、ビルは親日派ではないかという疑いが付きまとった。FBI文書が発端となりビルは大陪審に召喚された。1937年にシアトル領事館で秘書として働いていたことが理由だったが、秘書の仕事は起訴理由にはならないと棄却された。日系アメリカ人コミュニティのリーダーらは、共謀防止の観点から別々に収容された。ビルは家族と共に武装した護衛に付き添われ、ワシントン州ピュアラップの集合センターから、シアトルの日系人の大半が移送されたアイダホ州ミニドカではなく、ハートマウンテンに送られた。

ハートマウンテンでビルは、『ハートマウンテン・センチネル』の記者となり、GED3の取得を目指す生徒たちには英語を教えた。ビルが後に執筆した書籍や文章の多くに、戦前の経験や強制収容について記録されている。 

収容所新聞は、この小さな集落に暮らす人々に収容所内の出来事だけでなく、国内や戦地のニュースを伝えた。日系人の転住を担当した連邦戦時転住局のスタッフも編集メンバーの一員だった。ボーン・メッハウもその1人で、『ハートマウンテン・センチネル』が政府のガイドラインに従っているかを監視する責任者だった。2人は解放後も家族ぐるみで長年に渡り親しい交流を続け、『デモイン・レジスター』がビルの早期釈放の保証人となる上でボーンは大きな役割を果たした。

一家はデモイン駅でクエーカー教徒のロス・ウィルバーと合流した。クエーカー教徒は住む場所を失った人々の再定住を助け、日系人収容者の不動産所有権の回復を支援していた。

『デモイン・レジスター』は朝刊紙だったため、ビルは夕食後には家を出てバスで通勤し、明け方の配達に間に合うよう夜通し働いた。この頃までに一家は4人に増え、最初の家を購入するための頭金に充てる蓄えは十分にあった。アメリカ社会には依然として日系アメリカ人に対する不信感はあったが、一家は無事に新しい地区に引っ越すことができた。小柄な元薬剤師のポーリーン・ライナムが、ホソカワ家の再定住について近隣の全ての住民に説明してくれていた。

『デンバー・ポスト』紙で働くチャンスが訪れた。この新聞は日系アメリカ人に敵対的で、強制収容所では敵国市民が心地よい住居と食事を与えられ、甘やかされているという内容の記事を掲載していた。新たにポスト紙のオーナーとなったパーマー・ホイトは、こうした姿勢を改めることを約束し、ビルを雇った。その後2人は親しい友人となった。

一家は4人から5人に増え、もうじき6人目を迎えようとしていた。新しい家を探す時だった。デンバー北部は成長地域だったが、ユダヤ系やアフリカ系、中南米系の人々に対するさりげない、あるいはあからさまな差別があった。ホソカワ家がこの地域に引っ越そうとした時も激しい反対に遭ったが、裁判官は反対を慎むよう忠告した。『デンバー・ポスト』の従業員らはホソカワ家で新築祝いを開き、ビルへの支持を示した。

ビルはポスト紙の日曜版記者となり、アジア情勢に関する専門性を活かして朝鮮戦争やベトナム戦争を報じ、副主筆兼戦争特派員を務めた他、社説を担当し首脳会談などを報じた。1980年、地方紙『デンバー・ポスト』はタイムズ・ミラー社に買収され、新オーナーは社員の多くを入れ替えたが、ビルは1984年に退職するまでポスト紙に留まった。ビルは、退職後も自分にはやるべきことがあると感じていた。

ポスト紙のライバル紙、『ロッキー・マウンテン・ニュース』がビルを雇った。ビルはジャーナリズム界の「なぜ」や「どうして」を解説し、読者の疑問に答える新コラムを担当した。1976年、ビルは日本政府の任命を受け、ロッキー山脈がまたがる各州の名誉領事となり、1999年に常勤の有給職員が任命されるまで二国間のビジネスおよび文化交流促進に務めた。

ビルは、キャリアを通して物議を醸し続けた。アジア滞在中の初期の記事は日本寄りであると解釈されることがあった。日系人は強制退去に対抗すべきであったのに、おとなしく従順なモデルマイノリティと決めつけているという理由から、ビルの著書『二世:このおとなしいアメリカ人』も批判された。ビルを批判したのは、強制収容の経験のない若い人々だった。戦後賠償について、当初ビルは収容所での苦しい体験に値段を付けることは間違っていると考え賛同しなかったが、結果的に賠償を支持した。

ビルは11冊本を出し、そのほとんどが日系アメリカ人の経験を記録したものだった。一番の傑作はどれかと尋ねると「次作だ」と答えていた。ビルはさまざまな賞を受け、1961年には日本での学生暴動の報道がピューリツァー賞候補となり、2003年にはアジア系アメリカ人ジャーナリスト協会から特別功労賞が贈られた。2007年には名誉毀損防止同盟から市民権賞が授与された。ビルはすべての人の権利保証のために尽力し、9/11(2001年アメリカ同時多発テロ事件)後はイスラム教徒や中東に対する無分別な攻撃を厳しく批判した。現在、デンバー植物園とデンバー公立図書館にビル・ホソカワの記念碑がある。

父の人生や、私が父から受けた影響を考えると、私の成功の多くは両親のおかげであった。ビルは、規律と慈悲の人だった。物事をさまざまな視点から見るよう務めたことが、初期の記事が親日的と捉えられた所以かもしれない。アメリカンドリームを生きていたからこそ、大統領令9066号への協力を強く支持したのかもしれない。ビルはすべての人にそれぞれの物語があることを信じていた。私たちは物語を通して人を知る。ビルは人々を表面からではなく、内面から理解した。これは私が、日々未来の医師の育成に携わりながら生かしている父の教訓だ。

訳注:

1. 原題『Out of the Frying Pan』は、ホソカワ氏が1998年に発行した収容所体験を綴った書籍のタイトル

2. ビルはウィリアムの略名 

3. 高校卒業と同程度の学力を証明する認定資格

 

© 2019 Michael Hosokawa

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このシリーズについて

「ヒーロー」という言葉は、人によって異なる意味を持ちます。このシリーズでは、日系ヒーロー、すなわち彼らが人々に与えた影響についてさぐってみました。あなたのヒーローは誰ですか?あなたのヒーローはあなたの日系アイデンティティまたは日系人とのつながりにどのような影響を与えましたか?

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執筆者について

1940年オレゴン州ポートランド生まれ。ミズーリ大学医学部上級副学部長。娘のアシュリンはミシガン州グランドラピッズ在住。息子のマイケルはテキサス州ヒューストン在住。孫のエミリーとショーンは2人ともテキサスA&M大学で学んでいる。

(2019年6月 更新)

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